魂を眠らせるもの

ある日のセミナーにおいて、先生は受講生に

言いました。「ここにおられる日浦さんは、

生存欲求が無いので、嫌なことがあると、

直ぐ死にたがります。」と。

過去10回の自殺を決行した僕は笑ったけれど、

なぜ皆さんに、そう言ったのか。

それは、生存欲求の本質を見なさいと言う

教えなのです。

生存欲求=エゴ=自我=個人=非自己。

 

もし、人が本当に人間だけであるならば、

生存欲求は万人から正当化され、なんら

問題にならないでしょう。

しかしながら、人は人が知らない魂を抱えて

いながら、魂の存在と実態を知らないのです。

なぜなら、魂とは異質なもの、つまり身体と

心が自分だと思い込んでいるのだから魂を

知らないのです。この思い込み、勘違いが、

大きな間違いだと言う先生の指摘です。

心は、あれこれ考える。学習や諸々の体験を

記憶する。しかし魂は何も考えず、あらゆる

ことを知覚する。そして、何も記憶しない。

だから魂は自由なのです。

5歳児が見た事実は、父と母、また姉は死体

状態でありながら、その死体に活力を与え、

生きた体にしているのは、光りであったという

事実。けれども、それが魂だと説明する知力が

無かったということ。

生命無き身体、感覚の働きがない感覚器官に

魂が接触するとき、身体に生命活動が現れ、

感覚が機能する。だから身体に生命が宿ると

いう考え方も不適切なものです。

5歳児が見た光り、つまり魂を知覚認識する

ためには、魂の存在を固く信じなければならず、

人と魂の関係性を知る必要があるということ。

では、生存欲求がどういう障害になるのか?と

いうことが問われる。。

大前提は、魂は肉体の中に、生まれていません。

にもかかわらず、生きたい、生きよう、生きねば

ならない、という「生存欲求」を主張するのは、

誰のものか?と問い。いったい誰が生存欲求を

主張するのか?それが明らかなのは、生まれて

いない魂の欲求ではないこと。

従って、生まれていないと言うのに、生きたい、

生きよう、生きねばならないなどと、醜いウソの

欲望を発するものは、いったい誰だろう?

このような欲望が人を突き動かしている。

事実は、魂は肉体に生まれていない。

しかし、肉体に生まれたからには、生きたい、

生きよう、生きねばならないなどと、魂が

言うだろうか?それはあり得ない。

 

驚愕の事実は

生存欲求は、言い換えれば、身体と心に関する

総ての、欲望総体を言い、この世に関する欲望

総体だと言えるのです。

生きたい、生きよう、生きねばならないという

大嘘をいうものが誰か、という問いに続いて、

その醜い大嘘の承認を認めているのは、なんと

あなただ。表題の「魂を眠らせるもの」とは、

他でもないあなた自身(魂)なのだ。

そのような偽りの承認を容認している自分を

脇において、苦しい、悲しい、貧乏だ、などと

言うのだから、存在しない神も仏も、あなたを

救えはしない。

 

この論理から生まれる正しい認識は、あなたは

人生の被害者であると言うより、事実は加害者

でもあることを認めよう。或いは、被害者兼

加害者。

生存欲求は、つまるところ、魂としてのあなたを

眠らせる感覚器官による非常に魅惑的な猛毒の

ようなもの。自分ではないところの心身と同一化

していることが障害と言える。何百万年もの間、

感覚的な眠りに落ちるプルシャ達よ、強大な力を

失っていることを継続するのではなく、もう目を

覚まそうではないか。

もっと寝たいって・・・?

眠りは、苦悩の人生の連続だよ、夢子ちゃん。

現実は、そうではないかい?