初参加

今回、初めて参加した受講生からの

感想メールです。

 

日浦様

お忙しいところ、早速写真を送って頂き

ありがとうございます。

ミナーからお茶会までの長時間お付き合い

頂きどうもありがとうございました。

対人恐怖症もあり、最初はとても緊張しましたが、

受講生の皆さんも良い方ばかりで、徐々に緊張も

緩んでいき、最後は日浦先生ともお話できた事、

またブログの記事やYouTubeの体験談などが直接

伺えて、思い切って参加させてもらって良かった

と思いました

素敵なペンダントもありがとうございました。

帰ってから呼吸法を試してみましたが、

セミナーで聞いた時は、15分ぐらいなら私も出来

そうと思ったのですが、やってみると次から次へと

思考が浮かんで来て、15分が本当に長く感じられ、

何も考えない状態に保てるのは、ほんの数秒程度

です(泣)

今回のセミナーは何回も受講されてる方達も、

本当に分かりやすかった、と言われてたので、

録音を聴き直しながら、精進していきたいと思います。

またお金を貯めて参加させて頂けたらと思います。

最後に、受講承諾のメール以来、夜中の恐怖心からの

発作が出ていません。恩寵頂きありがとうございます。

御礼を言いそびれてしまってすみませんでした。

 

日浦から

感想メール、有り難う。

受講生の誰かが言っていたけど、清水の舞台から

飛び降りる覚悟を持ってセミナーに参加したと。

それほど日浦が怖いのかな?

そうじゃあなくて、別の意味だよね?

これから先、対人恐怖症は消えて行くよ。

また夜中の恐怖症から来る発作について、

暫くペンダントを付けて寝るといい。

或いは、護符シールを工夫して、身体に触れる

ようにしたらいい。

シールは体から剥がれるけど、剥がれても

護符の効果あるから捨てないように。

暫くは、瞑想中の想念と戦う体験も必要だ。

想念は、そのうち消え去る時がやって来る。

 

返 信

返信ありがとうございます。
記事また書かれるのですね。

日 浦

いいや記事は書かないよ。

 

十字架

 霊的シンボルとしての

「十字架」の意味について

 

水平線

人には、毎日の暮らしがある。

働く人も、働かない人にも

毎日がやってくる。

いつも通り朝になれば、日がまた昇り、

そしてまた、すぐさま頭上に太陽が昇る。

僕の影は、どこへ?

影は、足元にあり。

その日、あなたは、どこで何をする人か。

あなたが何をしようと世界は変わらない。

なんでもいいから、人は好きなように

生きればいい。

だが、あなたが何をしようとしまいと、

世界は何も変わらない。あなたさえも。

わたしは変わる、変わった、変わらなければ

そう言うのはエゴが言う幻想と言っていい。

いつも同じ軌跡を描いているのだから。

 

夕方になれば、広大な西の空を紅に染めながら、

空を飛ぶ鳥たちが巣に帰るように、人々もまた

家路につく。家がある人、ない人も。

家族ある人、無い人も。

愛する人が待つ人、待ち人いない人も。

そして、日はまた沈む。

あの太陽は、何処へ?

 

 

 

たしか、昨年も体験したような肌寒いが

それでも暖かい春が巡り来て、また桜を見た。

陽光に映し出される昼桜も良いが、

夜桜も綺麗なものだ。

しかし、すぐさま暑い夏がやって来て、

そしてまた夏が足早に去って、紅葉の秋が

静かに忍び寄る。いつの間にか。

たまには

ひなびた温泉旅館への一人旅。

愛する人と入る露天風呂もいい。

知っているかい?

雪国の冬は、世界が真っ白に変わるのだ。

何処の世界であれ、変わりゆく四季の姿は、

本当に美しい。

 

しかしながら、この宇宙、自然界、人の

社会は、本当は非情なものであって、

それは、冷たく生気のない画像の世界なのだ。

本当の姿は。。。

ただ、あなた(魂)が関心を持つからこそ、

あなたの意識、感覚、エネルギーが人社会、

自然界へ投影される。

それゆえ世界、自然界は感覚的に生き生きと

して生命があるかのように見えるだけ!

それは、心が作る錯覚なのだ!

森羅万象は、なんの拠り所も無いただの画像だ。

それが不可知な真理。

人はみな勘違いしていることを知らない。

人もこの世も幻影(マーヤ)だと言うことを。

もちろん、あなたも幻影から成るのだ。

嫌いなあいつも、愛しい人も画像だ。

だが、身体に接合したあなたは、

わたしは生きている、と勘違いして、

あらゆる画像に関心を示す。

あなたの心がマーヤの正体なり。

これがマーヤの生成原理だと人は知らない。

 

巡りくる四季のように、また眠る夜があり、

目覚める朝が繰り返してあるように、

あなたは、人だと勘違いしながら、いったい

どれほどの年月を繰り返すのか。

その果てには、死がやってくる。

死を迎えるあなたは、過去のすべてと、

未来とをすべて奪い取られる。

確実に。

そのような人の生と死は、

すでに何百万年も繰り返されていて、

これから先の何百万年も繰り返す。

そのことを人は気づかない。

 

無限的に無意識的に生まれ変わる

輪廻の束縛から自由になる人は、

極めて稀だ。

 

だが、誰が死のうと、世界は何も

変わらない。あなたさえも。

なぜなら人の死は、終わりではないから。

ただの無駄な繰り返しの画像なのだ。

しかも無限連鎖の。

そのことを人は知らない。

それは、あたかも巡る季節が無限的な

連鎖であるように、何の意味もない。

この連鎖の生を止めなければならない

ことを人は誰も知らない。

同じことの繰り返しである連鎖的な生は、

無限長さを示す「水平線」のようなものだ。

水平線は、見えざる「十字架」の「横線」だ。

 

この水平線を、あなたは、幾たびも歩いて、

また歩き回りて、いったい何千万回、

この地球を廻ったのだろう。それでも

あなたは、今でもゴールへ到達しない。

ただ同じ繰り返しの軌跡をグルグル回るだけ。

それさえもあなたは知らない。

 

垂直線

100億人にひとりかふたり、

奇特な人が稀にいるものだ。

それは、無限的の人生の中にも、観えざる

垂直道があると気づく幸福な人。

観えざる不可視の垂直道は、無限的水平線の

延長線上にいつもある。点の連続が水平線

であるから。

ただ人はそれに気づかない。

無限的に繰り返す水平線は、観えざる垂直線と

いう点の連続だ。無限の水平線が終わるところ、

それが霊的な十字架という形の象徴・シンボル

であり、観えざる垂直道と無限の水平線とが

交差する不可視な位置。

その不可視なる垂直道とは、唯一実在への至福の

扉のようなもの。

不可視な垂直道は、あなたが留まったとき、

そこに開く。ハッキリと静かに。

誰もが毎日まいにち四季を繰り返しながら

不可視な垂直道の上にいる。

この垂直道をみいだして、それを昇らない限り、

人は誰もが無限の転生輪廻を繰り返す。

死ぬほど苦しい!と言ったり、

人生は楽しい!と言ったりしながら。

 

本当は、生きることは苦の連続なのだ。

何故なら有情の実在の魂が、非情の世界に

幻惑されているからこそ、本当は苦が生じる

のである。その苦を隠すものがいる。

そのことを誰も知らない。気づかない。

だから切りがない連鎖の連続する人生。

人の生と死の無限の繰り返し。

しかし、切りがない人生に終わりを

もたらすものがある。それは、水平と垂直が

交わる霊的な「十字架」だ。十字架は、クリス

チャンのシンボルではないよ。

太古から存在する霊的スクランブル。

霊的な十字架が意味するのは、生と死の交わる

場所。輪廻の連続が終える場所、人の苦が消え

去るところ、マーヤの脱出場所、至高の自己へ

帰る秘密のスクランブル。

摩訶不思議な不可視なる霊的十字架。

それは、いつ、どこにでも存在する。

すべての人、すべての生類が帰天する秘密の

入り口。生と死のスクランブル。

読者の皆さん、この霊的な「十字架」の意味を

いつも忘れないようにね。

特に不可知な垂直道があることを。そこが、

あなたを解放する霊的なスクランブル。

 

 この「十字架」の記事をもって、ブログ記事の

書き込みを中断します。それは、ブログ閉鎖では

有りません。

 

付記

記事を中断するけれど、まだ身体を放棄する

訳ではないので、毎月のセミナーは予定通り

行います。

各月セミナーの申し込みメールはいつでも。

 

6月セミナー終了後、編集委員と打ち合わせが

始まります。

 

ザ、瞑想

 

心の観察についての

実例をひとつ。

高橋信次の会社に勤めた時、新製品開発の

命を受けたという話し。

あいつは何を考えたのか、いきなり丹沢山中へ

10日間の断食瞑想を決意した。確か4日目かな

超越的な力がやってきた。視界は360度に開き、

眼を閉じても、開けていても、世界が360度の

視野に入っていた。遥か遠方も自在に観えると

いう不思議さ。そして大脳か、それとも眉間か、

思考と言うものがそこから飛び出していた。

まるでシャボン玉のように。球の中には、それ

ぞれ単一の想念があり、それが立体画像に観えた。

この時、マーヤの仕組みを観たのだが、その知識が

なくて理解しなかった。

様々な超越的な力がやってきて、「自分は体を

持っているけれど、人間ではない」と確信した。

10日間の瞑想を終わり、その数日後、アパートの

畳に座り、眼を閉じると、仰天するような霊的

世界が開示され、「やっぱり僕は人間じゃあない」と

再確認する。

皆さんの本性もそうなんだ。

 

想念を透視する

話しは、ここからだ。

そのころは、瞑想が何か知らなかったけれど、

すぐさま「心の観察」をしたことを覚えている。

心の観察には、何のテーマも要らない。とにかく

心の中をただ観ることだ。<中略>

その観察において、僕の心の中に、社員にケチ

付けする自分を発見した。その瞬間、その自分が

消えたのだ。

すると、体中から白い煙か?霧状の微粒子が

噴き出して、全身を覆った。この時、「何を

観ても動じてはいけない」と言うことを何故か

知っていた。ここで、心を動かしたなら瞑想は

失敗に終わる。このようなことは、皆さんも

肝に銘じたほうがいい。

超微粒子は、僕の目の前に集まり、凝縮して

白く大きな霊狐になった。大きな尻尾が二本も

あり、体は大きい。尾の先から顔までは、

タタミ縦方向よりも長かったから、およそ2m

くらいだろう。

霊菰の体を撫でてみれば、思いのほか柔らかな

毛であって、心臓はどくどくと脈を打っていた。

「まさに生き物だ!」という知覚があった。

それから霊狐との対話があったが省略する。

 

苦の原因と消滅

以上は、おおざっぱではあるが、心の観察に

ついての実例を述べた。この体験は多面的な

説明が生じるけれど、最も重要な視点がある。

それは、想念を観るとき、物事の結果が外界の

現れであり、自分の内側に生じる想念を観て、

それが原因だと理解したという瞑想体験だ。

これが転じて、不幸や悲しみが去来するのも、

対人関係や、仕事がうまく行かないことも、

その原因となる想念が自分の心の中にあり、

外側に原因はないということを悟らなければ

意味がない。

皆さんの参考になると良いね。

 

このような超越的な瞑想体験は、真我に到達

した訳ではない。小学一年の時に告知された

ボロボロのボロボロになるための激苦体感が、

それからの人生に控えていたのだから。

これは、皆さんの参考にならないね(笑)

勘違いの終焉

世間には、様々な情報が拡散しているけれど、

それら情報には、嘘と偽りが多くある。ウソが

広まる原因・要因は、多々あるけれど根源的な

間違い、勘違いの素は、記事「わたしと言う嘘」

の中でも述べた通り、ただ一つの理由である知覚・

認識の勘違いがそれである。

この古くて新しい指摘の意味は、悪人は誰もいないし、

愚か者もいないし、不幸な人も誰もいないという

深い教えを含んでいるということ。

 

さて、読者が知るべき重要な知識は、勘違いの素、

それを例えば、味の素について、それを見出すなら

人間の抱える苦悩や悲しみのすべてが、一挙に消え

去る、という真実の教えが、このブログに説かれて

あるという事実。瞑想とかヨーガについて、本当の

意味を書こうとして、瞑想序論、動機、目的、各論、

マントラ、オウムの意味を綴ってきた。それらは、

果たして読者の役に立つのかな。

 

と言うのは、日浦に噛みつく人もいるからだ。

コメントやメールで。このブログでは、人の非難も

あるし、宗教批判もある。それは、マーヤの世界に

住む人のエゴ性を批判しているのであって、その

人自体の批判ではないということが読み取れる人、

読み取れずに勘違いする人もいる。

真実は、真実であるとし、偽りは偽りだと言うのは、

むしろ正しく、単なる批判では在りえない。

翻って、批判の何が悪いと言うのだろう。

 

激しく噛みついたおばさまへ

自分の中に人に噛みつき、人を激しく非難する心が

あることを棚に上げているんだね?

時々、棚卸した方が良いかな。でも、在庫の多さに

びっくり仰天するか?

批判の心を持って、ブログを読む人。また、真実を

知りたいと思って、ブログを読む人あり。

そんな彼ら彼女らは、天と地の差が生まれる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

 

瞑想もヨーガも、詰まる所、勘違いの素を見出す

ことの、いわばエクササイズだと知って欲しい。

唯ひとつのエクササイズ、或いは、修練と言って

いいけれど、それは、万能の秘宝なのだよ諸君。

 

一を聞いて、10を知るという諺があるけれど、

人は、10を聞いて、やっと一を知るようなもの。

ただ単に、ブログの文字を流し読みするとき、

10を教えているにも拘わらず、人生の貴重な

学びは、ひとつとして得難いものになる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

そろそろ、このブログも終焉の時がやってくる。

 

心の観察

世間では、心が大切だと言う人が大勢いて、

僕もまた昔は騙されて来た。そして心とは、

ああだこうだと言う心理学もある。

しかし、ラナママハルシさんの本を読んだ人や、

日浦のブログを読んだ人の多くは、

「心はあなたではない。身体もあなたではない」

と言う説明を聞いて、軽いショックを受けるという。

本当は、再起できないほどの大きなショックを

受けたらいいんだ。その方が理解が早まるから。

その意味では、日浦の論説は、インパクトがない

かも知れない。申し訳ないm(__)m

 

心の消滅をもたらす意味の説明は終えている。

そのメソッドは、古代から説かれているところの

「心の観察」が基本にある。心の観察が心の消滅に

至るので、それがゴールへ到達する。ゴールとは、

真我体現であり、自己解放への到達であり、解脱を

果たすことであり、究極の真理へ到達することだ。

これを理性的に考察するか、或いは、瞑想の中で

行うかの選択肢がある。そしてまた、心の観察も

下記の段階がある。

1. 心を直接観ることで心は消滅する。

2. 心の動きを観察すると心の動きが止まる。

3. 心を動かさずに居るだけ。

4. 心の根源を見出すと心は消え去る。

などである。詳しい説明が要るけれど、

このように心の観察法は、瞑想もヨーガも

ヨぅガないんだよ(苦笑)

心の観察は、呼吸制御も要らないし、オウムも

マントラも必要としない。文字通りシンプル。

紫蓮さんの「何もしなくていい」の意味に近い。

 

ここでも繰り返し教えたいこと。それは、

宗教も神も必要がない。

という真実。なぜなら、自分の心をただ観察

することにおいて、なにかの宗教が果たして

本当に必要かという問いが生まれる。同じく

自分の心をただ観察することにおいて、何の

神が必要なかという純粋素朴な問いが生まれる。

この問いの意味は、自分が自分の部屋を見る

ために、いったい何の神が、いったい何の

宗教が必要か、事実は要らないだろうと言う

ことと同じだ。部屋をパンツに置き換えても

いいんだって(笑)

心は汚れるものだ。汚れたパンツを見るのに、

あなたは宗教には絶対に依存しないだろう?

パンツを見るのに神を呼ばないよね?

汚れたものは、自分が洗濯すればいいことだ。

真理探究とか、心の観察もそれと同じだ。

 

人がゴールへ到達することに於いて、自分が

自分の心を観ればいいだけなので、宗教も神も

必要としないのだ。

このとは、皆さん分かるよね?ね?

ではなぜ、人は神を信じるのかね?

ではなぜ、宗教なんかにはまるのかな?

もし、「それが信仰心だ」と答える人がいる

とするならば、救いがたい。何となれば何の

根拠もなく、盲目的に信じる人たち。ただ信じ

たいから信じると言う人たちは、神を観ない。

神とは、真我体現の自分だ。

 

この意味、分かるよね?ね?

分かって欲しいんだよ。ね?

この意味が分かる人、理解した人は賢いよね?

オウム

むかし、オウム真理教があった頃、若い女の子から

質問されたことがある。

「オウム真理教って、電気関係の団体ですか?」と。

僕は笑ってしまった。

 

ヨーガと瞑想と言えば、これまたオームが登場する。

発音は、「A U M」であり、無言で唱えるのが最上と

言われている。ラージャヨーガの本にも登場するし、

パラマンサヨガナンダさんの師匠であったスワミ・

スリ・ユクテスワさんの現した「聖なる科学」では、

「オウムを唱えることが解脱への唯一の道である」と

書いてある。それって、本当なのか?

 

日浦が解脱を果たしたころ、約5千年も前であるが、

当時も多くのヨーギが瞑想修練をしていた。だが、

誰もがオウムを唱えてはいない。いつの時代にか

誰かがオウムを唱えだし、それがテキストの中に

入っていったものと思われる。

マハルシさんは、オウムを唱える必要はないと言い、

紫蓮さんもまた「オウムの唱和は、必須ではあり

ません」とおっしゃった。それでも唱えたければ、

唱えればいいよというだけのものだ。

だから、「オウムを唱えることが解脱への唯一の

道である」とは、いささか問題なのだ。

離欲という意味、オウムの唱和が同一の性質では

ないという意味論において。

 

中世の時代から、権威ある瞑想とされたラージャ

ヨーガは、「離欲が解脱への唯一の道である」と

示されている。この離欲こそ本当なのだ。

このように、世界には様々な教え、説明があり、

人は混乱をきたす。

皆さんが求めて来た、いわゆる真理とか真実は、

どのようなものだったのか。結果的に彷徨いの

旅ではなかったのか。

そして、何を、誰を、信じたらよかったのか。

これから先、どこへ往けばいいのか。

人生と言う長い旅には、万人に共通する隠れた

目的があり、また至福の終着駅があることを

誰も知らない。死は、終着駅ではないのだから。

 

探求に終りがある

大いなるゴーダマ仏陀のサブリーダーを務めた

日浦の教えは、人生という旅の意味、至福への

終着駅を明確に示しているのだ。

誰もが到達すべき終着駅、終局地点。そこが

唯一の実在。あなたの定住する霊的世界。

だが、宗教とかスピ系情報に汚染された人の

誰が理解するのは、本当に難しいだろう。

日浦のセミナーに来る人は、本当に幸福な

人なのだ。

 

 

マントラ

瞑想やヨーガの修練において、しばしば

マントラが登場する。日本語的には真言と

言うものか。

と言うより、スピ本とかネット上では必須

のように言われる傾向がある。

CDに録音されたマントラ、唱えたことの

ある読者もいるのだろう。

では、マントラは、唱えるべきか、唱えなくて

いいものか。

その答えは、複数ある。

効果があるマントラなら、唱えても良いが、

唱えないほうがよいマントラもあるのだ。

その区別は、ネット上では語られていない。

誰も知らないから。

第一に、マントラの現す言葉の深い意味を

知らなければならない。

それ故、サンスクリッド語のマントラをその

意味も知らない日本人が唱えたり、聞いたり

するのは、殆ど効果がないと知るべし。

そしてまた、マントラ効果は、唱える者の力に

よっては、恐るべきものがあり、天候を自由に

激変させたりする。そして、人を呪いに掛ける

マントラもある。悟りへ誘導しないマントラも

あるし、人を束縛へ導くマントラもあるのだ。

まさに両刃の剣。素晴らしくも恐るべきもの。

総じて、意味が明確でないマントラは唱えない

ほうがいい。危ないマントラもあるのだから。

 

ラナママハルシさんが語ったマントラの例え話は、

とても良いから、それを紹介しておこう。

話しは、国王と家臣の大臣との会話に表される。

マントラを唱えるという大臣がいた。王は大臣を

呼びつけて、自分にもマントラを教えろと命じた。

大臣は、教えることは出来ないと返事をした。

王はいぶかしそうに尋ねる。

「何故か?」

大臣は、マントラを唱える者は、その権威が必要

だと答える。

マントラの権威とは何か?と問う王に対し、大臣は

実例を示した。王に謁見する場には、武器をもった

護衛兵たちがいるが、その兵たちに向かい、あの王を

捕らえよ!と大臣は命じた。しかし、兵士たちは誰も

動かない。大臣は、もう一度、「王を捕らえよ!」と

命じたが、もちろん誰も動かない。

それを見た王は、怒って、兵士たちに命じた。

「大臣を捕らえよ!」と。

すると、大臣はすぐさま捕らえられた。

大臣は笑いながら言う。「王よ、これが権威です」と。

マントラを唱える権威とは、真我体現者のことだ。

 

ネット上で語られるマントラは、期待効果が得られず、

マントラを教えるスピ系リーダーの誰もが、その権威を

持ってはいない。そうであるからこそ、皆さんに言う

ことは、「真我に到達してからマントラを観よ。」と。

マントラ無くして、ゴールへ行けるのだから。