相談者

1ヵ月ぶりの書き込みです。

過日の個人相談を支障ないよう書きます。

 

相談者:「結婚って、何ですか?」

日浦:「僕も体験したし、あなたも体験したでしょう。

結婚した人はみな体験したことです。」

相談者:「なぜ、悲劇の離婚が生じたり、不幸がある

のでしょうか?」

日浦:「同じく体験したから自分が分かるのでは?」

相談者:「わたしの過去は不幸でした。結婚が幸福を

奪い取りました。わたしは幸福になりたいから相談に

きました」

日浦:「よいね。いままで幸福についての明確な

願望が無かった。恋愛が幻想だといったように、

大方の人の結婚も幻想なんですよ」

相談者:「そうですね~あの離婚を経験したいまなら、

それが受け入れられます」

日浦:「それでもまた新たな幻想を続けますか?」

相談者:「いえいえ(笑 ) もう結構です。でもひとり

生きることが寂しいのです。どうしたらいいでしょうか?」

日浦:「自分の生き方を、僕や他人に聞いてどうする

ですか?」

相談者:「良いアイデアなら、それを参考にします。」

日浦:「ダメですよ。自分の生き方を他人に依存するのは。

依存が悲しみを作ったのでは?」

相談者:「依存は期待であり、それが敗れたこと。確かに

そうです。どうしたらいいのですか?」

日浦:「どうしたらいいですか?と問うことを止めるべき

です。あなたも思い通りに生きたいとの想いがあり、

一方で、自分をどうしたらいいかという迷いがある。

だから、あなたは矛盾しているのです。」

相談者:「はい、いまでは、それが分かります」

日浦:「幸福であるなら、結婚するしないに関係なく

また、離婚したことでも幸福に生きられるんだよ。」

相談者:「はあ~?」

 

日浦:「結婚生活が地獄であれば、離婚は地獄からの

脱出ではないですか?

脱出先がまた地獄かも知れないけれど。

恋愛も結婚も、マインドの中に生じる願望です。魂には、

恋愛とか結婚願望がないのです。人が魂に立ち返れば、

自己愛に完結しているから他者への依存は生じません。

欲望が消え去った人は、平安に生きるのです。

人はみな不幸です。得られない願望を持つからです。

それが不幸であるから、この世に生まれたことを厭い、

人は死ねば仏になると言うけれど、そうではない。

肉体の死後、涅槃に入るのは、100億人に1人いればいい

方だろうね。死ねば仏とは、葬式後、家の仏壇に仏と

言う位牌ができるという程度の意味です。死後、仏に

らないのは、不幸や悲しみを抱く心を持ったまま、

あの世に帰るからです。あの世に帰れば、この世の

記憶は忘れ去る。あなたが過去世の記憶を無くして

いると同じく。

しかし、いつの日か地上の体験を思い出し、再び

地上へ生まれるか、生まれないかを決める時が来る。

誕生は任意であって、誰も強要していない。

魂によっては、独身を望むものも多い。それは結婚の

悲劇を体験として知るからだ。或いは、地上の生き方に

失敗したと思う人は、それを修正しようなどと考えて、

再び類似した環境や人を選んだり、反目した人と和合

しようなどと考えたりもする。それが修正されることは

極めて稀だ。むしろカルマの上塗りになる場合が多い。

結婚に失敗したら、今度こそ幸福な結婚をしたいと思い、

良いと思える相手を探し、その縁組をして生まれる。

親子関係もそうだ。

だが地上に生まれると、あの世の記憶が深く潜在され、

約束した人と結婚できるのは稀だ。

おおむね8割のカップルは、約束してない人(相性が悪い

とか過去に敵対した人)と結婚したりもする。これが

不幸の要因の一つ。

結婚しないと決めて生まれた人の多くは、地上の体験から

学んだ人達であるけれど、生まれると、結婚したいと言う

願望を持つだろう。これも不幸の元。

つまり願望そのものが、不幸の原因だと知る人は稀だ。

恋愛願望も結婚願望も持たずに生きる人もいる。そんな

彼らや彼女らは、幸福だから、依存するための他者を

必要としない。

性的欲望のない男女がいる。そんな彼女彼氏は過去世に

性的欲望を消し去ったからだ。それは、一種の偉大さだ。

だが生まれて他人から何だかんだと言われると、迷いや

欲望が生じるだろう。人の意見を受け入れると、不幸にも

なるのです。

人生の原因となるものは、あの世において決めたことや

望んだことが宿命的な支配要素になる。宿命とか運命と

呼ばれるのは、自分の思い通りにならないことであり、

それらの支配要素をカルマと呼んでいる。カルマゆえに

人は生まれ、見えざるカルマに翻弄され、あの世へ帰って

ゆく。

つまるところ転生輪廻は、あなたでは無いカルマが繰り

返すもの。これを心とも呼んでいる。あなた(魂)は、

生まれてはいないのです。

地上の結婚相手さえ決めていない人は、地上での運命の

赤い糸を見出すことが出来ない。にもかかわらず、

それを探し求めながら得られない人生は惨めだと思う。

この世の生き方は、あの世の階層を決める。地獄と言う

階層から、天国と呼ばれる階層までは、沢山の意識界が

あり、地上の生き方に応じた階層へ行く。

失敗したと思うよう人生を繰り返し今度こそは!と

決心し直しながら、あの世と、この世とを永輪廻して

いる限数の魂達。彼らの不幸はエンドレス。解放される

見通しがない。

過去世に敵対した者同士が、今度は仲良くやろうなどと

考えて親子の縁組をしたり、夫婦になったりしている

のです。

生まれると、その決意が忘れ去られるから、骨肉の争いも

生まれるもの。そんな彼ら彼女らは、揺るぎない平安の

ゴールに到する見通しがないのです。

 

相談者:「そうであるなら、人として生まれることが

苦しみの原因だということですか?」

日浦:「そうです。人生は、苦の連続です。」

相談者:「そんなバカな!幸せな人は沢山いますから!」

日浦:「幸せそうに見える人も苦しみを抱えています。

多くは、一時的な幸せであり、見せかけの幸せであり、

続かない幸せであり、やがて壊れゆく幸せです。」

相談者:「まあ!生きることが苦であり、死んでも

苦悩は消え去らないと言うなら、わたしは、どうしたら

いいのでしょう?」

日浦:「そのように言うこと自体が間違いです。」

相談者:「あの、私は相談料を振り込み、ここへ相談に

来たのです。どうか真面目に答えてください。」

日浦:「あなたに幸せになって欲しいから、真面目に

回答しているのです。あなたの苦しみ、結婚の失敗、

すべては、あなたの幻想です。

幻想と言う意味は、あなたは人生と言う夢を見ている

だけです。夢の中で様々なドラマが展開しているだけ

です。なぜなら、あなたは今でさえ、生まれていない

のだから幸福なのです。あなたは、ただ人生の夢から

覚めれば、すべ良しです。」

 

相談者は、固まってしまい、言葉を失った様子。

対話しながら彼女の頑迷なカルマを消したのです。

彼女が家に帰ってから、不幸だと言う想念が消えて

いたので、不思議がっていましたね。

 

個人相談の7割が、不幸な結婚に関することです。

この記事を読んだ人は、もう来なくていいよね?

  

知覚・認識の間違い

ラーラ沖縄の「御質問への回答1.2」の補足として、

先に書いた「知覚・認識の間違い」を再掲する。

この記事を読み、意味を理解した人であれば、

ラーラ沖縄へ宛てた批判は、的外れだと自覚

できるはずである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

世間には、様々な情報が拡散しているけれど、

それら情報には、嘘と偽りが多くある。ウソが

広まる原因・要因は、多々あるけれど根源的な

間違い、勘違いの素は、記事「わたしと言う嘘」

の中でも述べた通り、ただ一つの理由である知覚・

認識の勘違いがそれである。

つまり、わたしという自己認識が自我であり、

エゴであり、それが本性の自己を偽る間違いの素

なのだ。もっとハッキリ言うならば、わたしと言う

自己認識の自我は、これをエゴともいい、本性の

自己を殺すものであるという事実。

この古くて新しい指摘の意味は、人の本性において、

悪人は誰もいないし、愚か者もいないし、不幸な

人も誰もいないという深い教えを含んでいる。

 

さて、読者が知るべき重要な知識は、勘違いの素、

例えば、味の素について、それを見出すなら人間の

抱える苦悩や悲しみのすべてが、一挙に消え去る、

という真実の教えが、このブログに説かれてある

という事実。

瞑想とかヨーガについて、本当の意味を書こうと

して、瞑想序論、動機、目的、各論、マントラ、

オウムの意味を綴ってきた。それらは、果たして

読者の役に立つのかな。

 

と言うのは、日浦に噛みつく人もいるからだ。

コメントやメールで。

このブログでは、人の非難もあるし、宗教批判も

ある。それは、マーヤの世界に住む人のエゴ性を

批判しているのであって、その人自体の批判では

ないということが読み取れる人、読み取れずに

勘違いする人もいる。

真実は、真実であるとし、偽りは偽りだと言う

のは、むしろ正しく、単なる批判では在りえない。

真実を真実と言わず、偽りを偽りと言えない人は、

むしろ不誠実な嘘つきではないだろうか。

翻って、批判の何が悪いと言うのだろう。

 

激しく噛みついたおばさまへ

自分の中に人に、人に噛みつき、人を非難する心が

あることを棚に上げているんだね?

時々、棚卸した方が良いかな。でも、在庫の多さに

びっくり仰天するか?

批判の心を持って、このブログを読む人、或いは、

真実を知りたいと思って、このブログを読む人あり。

そんな彼ら彼女らは、天と地の差が生まれる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

  

瞑想もヨーガも、詰まる所、勘違いの素を見出す

ことの、いわばエクササイズだと知って欲しい。

しかし、それらが目的じゃあないのだ。

知覚・認識の間違いを知るための唯ひとつのエク

ササイズ、或いは、修練と言っていいけれど、

それは、万能の秘宝なのだよ諸君。

 

一を聞いて、10を知るという諺があるけれど、

人は、10を聞いて、やっと一を知るようなもの。

ただ単に、ブログの文字を流し読みするとき、

10の教えが含まれているにも拘わらず、意味を

知覚しないなら、人生の貴重な学びは、ひとつ

として得難いものになる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

そろそろ、このブログも終焉の時がやってくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追加論説

自我とかエゴは、人の本性である真我・唯一の実在性を

殺すものであり、それゆえ本質的に邪悪なものだ。

つまり自我とかエゴは、人の本性ではなく、仮想的に

マーヤの世界に生まれる観念なのだ。自我とかエゴは

あなたでは無い。にもかかわらず、人は自我を自分だと

勘違いしている。自我を分解すれば、身体感覚と心が

自分だと言う知覚の間違いが生じている。それゆえ

それは、全的に否定されるべき諸悪の根源である。

 

しかしながら人間社会の善悪論は、エゴ性による

主張が多くあり、というより人間社会の善悪論や

道徳論は、自我、エゴの見識によるものである。

それゆえに、エゴが主張する正当性や善悪論は

全面的に間違いなのだ。

 

真理は、マーヤに束縛された人を自由にする半面、

エゴを殺す猛毒のようだと教えたように、人は

誰もが自らのエゴを殺さなければ、魂が解放される

ことは望めない。

自分が批判を受けて、他人への批判を見て、

噛みつき腹を立てるはエゴなり。

しかし、すべての人は、自我、エゴに非ず。

本性において人は誰もが唯一の実在であり、

万物の根源である真我だと繰り返し教えている。

だがエゴは非自己ゆえに、この教えを受け入れ

ようとしない。困ったものだ。

十字架

 霊的シンボルとしての

「十字架」の意味について

 

水平線

人には、毎日の暮らしがある。働く人も、

働かない人にも毎日がやってくる。

いつも通り朝になれば、日がまた昇り、

そしてまた、すぐさま頭上に太陽が昇る。

僕の影は、どこへ?

影は、足元に。

その日、あなたは、どこで何をする人か。

あなたが何をしようと世界は変わらない。

なんでもいいから、人は好きなように

生きればいい。

だが、あなたが何をしようとしまいと、

世界は何も変わらない。あなたさえも。

わたしは変わる、変わった、変わらなければ

そう言うのはエゴが言う幻想と言っていい。

いつも同じ軌跡を描いているのだから。

しかも何百万年と言う長き時を繰り返して

いる。

 

夕方になれば、広大な西の空を紅に染めながら、

空を飛ぶ鳥たちが巣に帰るように、人々もまた

家路につく。家がある人、ない人も。

家族ある人、無い人も。

愛する人が待つ人、待ち人いない人も。

そして、日はまた沈む。

あの太陽は、何処へ?

夕焼けの美しさに感動した君は、そのような

感動を何百万年も繰り返している。

同じ太陽を何百万年も繰り返し見ているのだ。

 

たしか、昨年も体験したような肌寒いが

それでも暖かい春が巡り来て、また桜を見た。

陽光に映し出される昼桜も良いが、

夜桜も綺麗なものだ。

しかし、すぐさま暑い夏がやって来て、

そしてまた夏が足早に去って、紅葉の秋が

静かに忍び寄る。いつの間にか。

たまには

ひなびた温泉旅館への一人旅。

愛する人と入る露天風呂もいい。

そのような体験もまた、数百万年も繰り

返していながら、繰り返す過去を知らない。

 

知っているかい?

雪国の冬は、世界が真っ白に変わるのだ。

何処の世界であれ、変わりゆく四季の姿は、

本当に美しい。

 

しかしながら、この宇宙、自然界、人の

社会は、本当は非情なものであって、

冷たく生気のない画像の世界なのだ。

本当の姿は。。。

ただ、あなた(魂)が関心を持つからこそ、

あなたの意識、感覚、エネルギーが、人社会、

自然界へ投影される。

それゆえ世界、この自然界は感覚的に生き

生きとして生命があるかのように見えるだけ!

それは、心が作る錯覚なのだ!

森羅万象は、なんの拠り所も無いただの画像だ。

それが不可知な真理。

人はみな勘違いしていることを知らない。

人もこの世も幻影(マーヤ)だと言うことを。

もちろん、あなたも幻影から成るのだ。

嫌いなあいつも、愛しい人も画像だ。

だが、身体に接合したあなたは、

わたしは生きている、と勘違いして、

あらゆる画像に関心を示す。

時に泣いたり、笑ったりしながら。

 

人が生きるこの世界はマーヤと呼ばれる

幻影であり、蜃気楼のようなもの。

それを投影するのは、あなたの感覚的な心なのだ。

あなたの心がマーヤの正体なり。

これがマーヤの生成原理だと人は知らない。

 

巡りくる四季のように、また眠る夜があり、

目覚める朝が繰り返してあるように、

あなたは、人だと勘違いしながら、いったい

どれほどの年月を繰り返すのか。

その果てには、死がやってくる。

死を迎えるあなたは、過去のすべてと、

未来とをすべて奪い取られる。

確実に。

そのような人の生と死は、すでに何百万年も

繰り返されていて、これから先の何百万年も

同じことを繰り返す。

そのことを人は気づかない。

 

無限的に無意識的に生まれ変わる輪廻の

束縛から自由になる人は、極めて稀だ。

 

だが、誰が死のうと、世界は何も

変わらない。あなたさえも。

なぜなら人の死は、終わりではないから。

ただの無駄な繰り返しの画像なのだ。

生まれて死ぬと言う映画にようなものだ。

しかも終わりの来ない無限連鎖の。

そのことを人は知らない。

それは、あたかも巡る季節が無限的な

連鎖であるように、何の意味もない。

この連鎖の生を止めなければならない

ことを人は誰も知らない。

同じことの繰り返しである連鎖的な生は、

無限長さを示す「水平線」のようなものだ。

水平線は、見えざる「十字架」の「横線」だ。

 

この水平線を、あなたは、幾たびも歩いて、

また歩き回りて、いったい何千万回、この地球を

廻ったのだろう。

それでもあなたは、今でもゴールへ到達しない。

ただ同じ繰り返しの軌跡をグルグル回るだけ。

それさえもあなたは知らない。

 

垂直線

100億人にひとりかふたり、奇特な人が

稀にいるものだ。

それは、無限的に連鎖する人生の中にも、

観えざる垂直道があると気づく幸福な人。

観えざる不可視の垂直道は、無限的水平線の

延長線上にいつもある。点の連続が水平線

であるから。

ただ人はそれに気づかない。

無限的に繰り返す水平線は、観えざる垂直線と

いう点の連続だ。無限の水平線が終わるところ、

それが霊的な十字架という形の象徴・シンボル

であり、観えざる垂直道と無限の水平線とが

交差する不可視な位置。

その不可視なる垂直道とは、唯一実在への至福の

扉のようなもの。不可視な垂直道は、あなたが

留まったとき、そこに開く。ハッキリと静かに。

誰もが毎日まいにち四季を繰り返しながら

不可視な垂直道の上にいる。

この垂直道をみいだして、それを昇らない限り、

人は誰もが無限の転生輪廻を繰り返す。

死ぬほど苦しい!と言ったり、

人生は楽しい!と言ったりしながら。

 

本当は、生きることは苦の連続なのだ。

何故なら有情の実在の魂が、非情の世界に

幻惑されているからこそ、思い通りの人生が

得られず、本当は苦が生じるのである。

その苦を隠すものがいるのだ。

それは、生きよう、生きたい、生きねばならない

という刹那的衝動だ。その衝動は、あなたのものでは

ない。そのことを誰も知らない。気づかない。

だから切りがない連鎖の連続する人生。

人の生と死の無限の繰り返し。

しかし、切りがない人生に終わりを

もたらすものがある。それは、水平と垂直が

交わる霊的な「十字架」だ。十字架は、クリス

チャンのシンボルではないよ。

太古から存在する霊的スクランブル。

霊的な十字架が意味するのは、生と死の交わる

場所。輪廻の連続が終える場所、人の苦が消え

去るところ、過去と現在と未来とがひとつに

束ねられた処、マーヤの脱出場所、至高の自己へ

帰る秘密のスクランブル。

摩訶不思議な不可視なる霊的十字架。

それは、いつ、どこにでも存在する。

すべての人、すべての生類が帰天する秘密の

入り口。生と死のスクランブル。

 

読者の皆さん、この霊的な「十字架」の意味を

いつも忘れないようにね。

特に不可知な垂直道があることを。そこが、

あなたを解放する霊的なスクランブル。

 

 この「十字架」の記事をもって、ブログ記事の

書き込みを中断します。それは、ブログ閉鎖では

有りません。

 

付記

記事を中断するけれど、まだ身体を放棄する

訳ではないので、毎月のセミナーは予定通り

行います。

各月セミナーの申し込みメールはいつでも。

 

6月セミナー終了後、編集委員と打ち合わせが

始まります。

 

ザ、瞑想

 

心の観察についての

実例をひとつ。

高橋信次の会社に勤めた時、新製品開発の

命を受けたという話し。

あいつは何を考えたのか、いきなり丹沢山中へ

10日間の断食瞑想を決意した。確か4日目かな

超越的な力がやってきた。視界は360度に開き、

眼を閉じても、開けていても、世界が360度の

視野に入っていた。遥か遠方も自在に観えると

いう不思議さ。そして大脳か、それとも眉間か、

思考と言うものがそこから飛び出していた。

まるでシャボン玉のように。球の中には、それ

ぞれ単一の想念があり、それが立体画像に観えた。

この時、マーヤの仕組みを観たのだが、その知識が

なくて理解しなかった。

様々な超越的な力がやってきて、「自分は体を

持っているけれど、人間ではない」と確信した。

10日間の瞑想を終わり、その数日後、アパートの

畳に座り、眼を閉じると、仰天するような霊的

世界が開示され、「やっぱり僕は人間じゃあない」と

再確認する。

皆さんの本性もそうなんだ。

 

想念を透視する

話しは、ここからだ。

そのころは、瞑想が何か知らなかったけれど、

すぐさま「心の観察」をしたことを覚えている。

心の観察には、何のテーマも要らない。とにかく

心の中をただ観ることだ。<中略>

その観察において、僕の心の中に、社員にケチ

付けする自分を発見した。その瞬間、その自分が

消えたのだ。

すると、体中から白い煙か?霧状の微粒子が

噴き出して、全身を覆った。この時、「何を

観ても動じてはいけない」と言うことを何故か

知っていた。ここで、心を動かしたなら瞑想は

失敗に終わる。このようなことは、皆さんも

肝に銘じたほうがいい。

超微粒子は、僕の目の前に集まり、凝縮して

白く大きな霊狐になった。大きな尻尾が二本も

あり、体は大きい。尾の先から顔までは、

タタミ縦方向よりも長かったから、およそ2m

くらいだろう。

霊菰の体を撫でてみれば、思いのほか柔らかな

毛であって、心臓はどくどくと脈を打っていた。

「まさに生き物だ!」という知覚があった。

それから霊狐との対話があったが省略する。

 

苦の原因と消滅

以上は、おおざっぱではあるが、心の観察に

ついての実例を述べた。この体験は多面的な

説明が生じるけれど、最も重要な視点がある。

それは、想念を観るとき、物事の結果が外界の

現れであり、自分の内側に生じる想念を観て、

それが原因だと理解したという瞑想体験だ。

これが転じて、不幸や悲しみが去来するのも、

対人関係や、仕事がうまく行かないことも、

その原因となる想念が自分の心の中にあり、

外側に原因はないということを悟らなければ

意味がない。

皆さんの参考になると良いね。

 

このような超越的な瞑想体験は、真我に到達

した訳ではない。小学一年の時に告知された

ボロボロのボロボロになるための激苦体感が、

それからの人生に控えていたのだから。

これは、皆さんの参考にならないね(笑)

心の観察

世間では、心が大切だと言う人が大勢いて、

僕もまた昔は騙されて来た。そして心とは、

ああだこうだと言う心理学もある。

しかし、ラナママハルシさんの本を読んだ人や、

日浦のブログを読んだ人の多くは、

「心はあなたではない。身体もあなたではない」

と言う説明を聞いて、軽いショックを受けるという。

本当は、再起できないほどの大きなショックを

受けたらいいんだ。その方が理解が早まるから。

その意味では、日浦の論説は、インパクトがない

かも知れない。申し訳ないm(__)m

 

心の消滅をもたらす意味の説明は終えている。

そのメソッドは、古代から説かれているところの

「心の観察」が基本にある。心の観察が心の消滅に

至るので、それがゴールへ到達する。ゴールとは、

真我体現であり、自己解放への到達であり、解脱を

果たすことであり、究極の真理へ到達することだ。

これを理性的に考察するか、或いは、瞑想の中で

行うかの選択肢がある。そしてまた、心の観察も

下記の段階がある。

1. 心を直接観ることで心は消滅する。

2. 心の動きを観察すると心の動きが止まる。

3. 心を動かさずに居るだけ。

4. 心の根源を見出すと心は消え去る。

などである。これらに詳しい説明が要るけれど、

このように心の観察法は、瞑想もヨーガも

ヨぅガないんだよ(苦笑)

心の観察は、呼吸制御も要らないし、オウムも

マントラも必要としない。文字通りシンプル。

紫蓮さんの「何もしなくていい」の意味に近い。

 

ここでも繰り返し教えたいこと。それは、

自分の心を観察する過程において、

宗教も神も必要がない。

という真実。

なぜなら、自分の心をただ観察することにおいて、

なにかの宗教に依存することが本当に必要か

という問いが生まれる。

同じく自分の心をただ観察することにおいて、

神を求める必要がないという純粋素朴な問いが

生まれる。

この問いの意味は、自分が自分の部屋を見る

ために、いったい何の神が、いったい何の

宗教が必要か、事実は要らないだろうと言う

ことと同じだ。

部屋をパンツに置き換えてもいいんだって(笑)

心は汚れるものだ。汚れたパンツを見るのに、

あなたは宗教に依存しないだろう?

自分のパンツを見るのに神を呼ばないよね?

汚れたものは、自分が洗濯すればいいことだ。

或いは捨てるとか。真理探究とか、心の観察も

それと同じだ。

 

人がゴールへ到達することに於いて、自分が

自分の心を観ればいいだけなので、宗教も神も

必要としないのだ。

このとは、皆さん分かるよね?ね?

ではなぜ、人は神を信じるのかね?

ではなぜ、宗教なんかにはまるのかな?

 

もし、「それが信仰心だ」と答える人がいる

とするならば、その人は救いがたいあほう者と

言わなければならない。

何となれば、何の事実的根拠もなく、神や

宗教を盲目的に信じる人たちがいるのは、

或いは、ただ信じたいから信じると言う

人たちは、妄念を抱いているから、決して

神を観ない。

神とは、真我体現の自分だ。真我体現は、

自分の心を観察することにおいてのみ

実現し得るものだ。

従って、荒唐無稽な神と言う想念、また

愚かな教祖の精神的娯楽である宗教に

関心を向けて楽しんでいる間は、決して

自分の心を観察することは無いだろう。

なぜなら他者が投影する画像に魅入って

いるから、その間は、自分を観ていない。

だから、神を信じたり、ド低能な教祖の

精神的娯楽である宗教を楽しんでいる人は、

信仰心があるのではなく、妄念に生きている

人だ。妄念に生きる人は、いつまでも自己を

見失うのも無理はない。

この意味、分かるよね?ね?

分かって欲しいんだよ。ね?

この意味が分かる人は、心の観察に

向かうだろう。

 

オウム

むかし、オウム真理教があった頃、若い女の子から

質問されたことがある。

「オウム真理教って、電気関係の団体ですか?」と。

僕は笑ってしまった。

 

ヨーガと瞑想と言えば、これまたオームが登場する。

発音は、「A U M」であり、無言で唱えるのが最上と

言われている。ラージャヨーガの本にも登場するし、

パラマンサヨガナンダさんの師匠であったスワミ・

スリ・ユクテスワさんの現した「聖なる科学」では、

「オウムを唱えることが解脱への唯一の道である」と

書いてある。それって、本当なのか?

 

日浦が解脱を果たしたころ、約5千年も前であるが、

当時も多くのヨーギが瞑想修練をしていた。だが、

誰もがオウムを唱えてはいない。いつの時代にか

誰かがオウムを唱えだし、それがテキストの中に

入っていったものと思われる。

マハルシさんは、オウムを唱える必要はないと言い、

紫蓮さんもまた「オウムの唱和は、必須ではあり

ません」とおっしゃった。それでも唱えたければ、

唱えればいいよというだけのものだ。

だから、「オウムを唱えることが解脱への唯一の

道である」とは、いささか問題なのだ。

離欲という意味、オウムの唱和が同一の性質では

ないという意味論において。

 

中世の時代から、権威ある瞑想とされたラージャ

ヨーガは、「離欲が解脱への唯一の道である」と

示されている。この離欲こそ本当なのだ。

このように、世界には様々な教え、説明があり、

人は混乱をきたす。

皆さんが求めて来た、いわゆる真理とか真実は、

どのようなものだったのか。結果的に彷徨いの

旅ではなかったのか。

そして、何を、誰を、信じたらよかったのか。

これから先、どこへ往けばいいのか。

人生と言う長い旅には、万人に共通する隠れた

目的があり、また至福の終着駅があることを

誰も知らない。死は、終着駅ではないのだから。

 

探求に終りがある

大いなるゴーダマ仏陀のサブリーダーを務めた

日浦の教えは、人生という旅の意味、至福への

終着駅を明確に示しているのだ。

誰もが到達すべき終着駅、終局地点。そこが

唯一の実在。あなたの定住する霊的世界。

だが、宗教とかスピ系情報に汚染された人の

誰が理解するのは、本当に難しいだろう。

日浦のセミナーに来る人は、本当に幸福な

人なのだ。

 

 

マントラ

瞑想やヨーガの修練において、しばしば

マントラが登場する。日本語的には真言と

言うものか。

と言うより、スピ本とかネット上では必須

のように言われる傾向がある。

CDに録音されたマントラ、唱えたことの

ある読者もいるのだろう。

では、マントラは、唱えるべきか、唱えなくて

いいものか。

その答えは、複数ある。

効果があるマントラなら、唱えても良いが、

唱えないほうがよいマントラもあるのだ。

その区別は、ネット上では語られていない。

誰も知らないから。

第一に、マントラの現す言葉の深い意味を

知らなければならない。

それ故、サンスクリッド語のマントラをその

意味も知らない日本人が唱えたり、聞いたり

するのは、殆ど効果がないと知るべし。

そしてまた、マントラ効果は、唱える者の力に

よっては、恐るべきものがあり、天候を自由に

激変させたりする。そして、人を呪いに掛ける

マントラもある。悟りへ誘導しないマントラも

あるし、人を束縛へ導くマントラもあるのだ。

まさに両刃の剣。素晴らしくも恐るべきもの。

総じて、意味が明確でないマントラは唱えない

ほうがいい。危ないマントラもあるのだから。

 

ラナママハルシさんが語ったマントラの例え話は、

とても良いから、それを紹介しておこう。

話しは、国王と家臣の大臣との会話に表される。

マントラを唱えるという大臣がいた。王は大臣を

呼びつけて、自分にもマントラを教えろと命じた。

大臣は、教えることは出来ないと返事をした。

王はいぶかしそうに尋ねる。

「何故か?」

大臣は、マントラを唱える者は、その権威が必要

だと答える。

マントラの権威とは何か?と問う王に対し、大臣は

実例を示した。王に謁見する場には、武器をもった

護衛兵たちがいるが、その兵たちに向かい、あの王を

捕らえよ!と大臣は命じた。しかし、兵士たちは誰も

動かない。大臣は、もう一度、「王を捕らえよ!」と

命じたが、もちろん誰も動かない。

それを見た王は、怒って、兵士たちに命じた。

「大臣を捕らえよ!」と。

すると、大臣はすぐさま捕らえられた。

大臣は笑いながら言う。「王よ、これが権威です」と。

マントラを唱える権威とは、真我体現者のことだ。

 

ネット上で語られるマントラは、期待効果が得られず、

マントラを教えるスピ系リーダーの誰もが、その権威を

持ってはいない。そうであるからこそ、皆さんに言う

ことは、「真我に到達してからマントラを観よ。」と。

マントラ無くして、ゴールへ行けるのだから。