三歳児

2014年、先生から教えられたことの基本

原則、それは、人は誰にでも本性があり

ながら、人はその本性を殺しながら生きて

いるのだということ。

更には、人は誰もが唯一であると言う、

すべての人類に対する宣言であった。

この基本原則について、自分の体験を

踏まえながら概説してゆきます。

森羅万象

1951年、その3歳児は、森羅万象と言う

言葉を知る由もないけれど、目で見える

諸々の事象は、本当のところ実在ではなく、

まぼろしのようなものであり、人に可視化

された森羅万象の内側というか、背後には、

人が知ることの出来ない、普遍的な真理が

在るに違いないと思っていた。

真理が在ると思えばこそ、探究が生じたと

知る。

育った環境は、田舎だったので、周囲は

自然環境であった。

ある時は、森林の中に長時間たたずみ、

樹木の背後から、或いは樹木から真理を

知覚できるかと黙想していた。

時に小川の水の流れは、なぜ生じるのか、

流れを生み出す万物の本質を知りたいと

川の流れを見ながら思っていた。

しかし親に聞いても、そのようなことを

親も知らないと分っていたことの不思議。

この三歳児の関心ごとは、友達と遊ぶこと

ではなく、森羅万象の背後のあるであろう

神秘を知りたかっただけだ。

この三歳児は、森羅万象とか、真理と言う

言葉さえ知らないけれど、それが実在する

と言う強い確信があった。

この三歳児は、なぜ真理が実在するという

確信があるのか、それを不思議に思った。

そして、三歳児が理解したのは、知らない

ことは知らないこととし、ああでもない、

こうでもない、ああであるのか、こうで

あるのかと考えること即ち妄想的考えが

間違いだと気づいていた。

だから思考なき黙想が真理探究の基本的な

姿勢となった。

しかし、森羅万象の背後には、何があるのか、

その熱烈なる問いは、その答えが得られる

ことは無かった。

がしかし、真理を求めても人の言葉を持って、

自然界が人に語りかける訳も無いと知って、

自然界が語りかけるかというという妄想を

やめて、真理を探究することさえ無駄なこと

と知った。

それから後に知ったことは、森羅万象は、

自分の外側にあるのだという当たり前な

気づきがあって、万物を認識する自分とは

何かという問いに変わっていった。

今思うに、彼は、熱烈なる探求心を持った

三歳児だったと言える。