五歳児

人は、生きていない

皆さんは、「わたしは生きている」という

けれど、それは、幻想ではないのか。

人には、「自分は生きている」と言う感覚が

あり、その感覚がもたらす思考は本当なのか?

という問いを持たなければならない。

その根拠となるであろう体験を語ろう。

 

1953年、ある日の夕食時、父、母、姉、僕を

含む4人が夕食のテーブルに着いた。そして、

その夕食時には、なんの前触れも無く、素早く

彼はやってきて、5歳児の思考を吹き消した。

そのように知覚した五歳児!

すると、不思議が生じた。その不思議とは、

僕は生きているけれど、父、母、姉の3人は、

生きていなかった!という驚愕の事実を見た。

見たことは幻覚ではないし、妄想でも無い

ことを5歳児は知っていた。

つまり家族は死体状態にあって、しかし

生きているように見えること、それを見た

ので、大いに驚いた五歳児だった。

食事をする死体

こうした食事の際に展開した不思議な光景は、

家族が死体だと言うのに、ご飯を食べている!?

死体だと言うのに、ぺちゃくちゃおしゃべり

している!?どうしてそうなる?

死体だと言うのに、お代わりする!?

これは、夢ではないけれど、どうなって

いるんだ・・・?

怪訝な顔をした僕に対し、「ゆういち、

どうしたんだ?」と声をかけたのは、

死体の状態にある父であった!この時、

死体の父に返す言葉が無かった。

(説明の挿入)

「私は在る」の本を書いた二サルガダッタ

マハラジさんや、ラナママハルシさんは、

生きた人を指して、人は死んでいるように

見えるとか、眠っている人のように見える

と言っていた。生きている人間をゾンビ的

であると描写する聖者もいる。

この五歳児は、聖者と呼ばれた彼らと同じ

ことを見たのだと思う。このことは死体の

状態を肉眼が見たと言うより、魂それ自体の

知覚が生じたから、肉体と言うまぼろしを

見たのだと言える。

魂の知覚が生じる条件は、思考を吹き消す

こと。つまり何も考えない、何も恣意しない。

これ自然体。

これを当時の五歳児は知っていたという驚き。

知覚は思考と異なるので、知識が無い五歳児

でも知覚は働く。

 

その夜、家族が死体であることを見たので、

様々なことを考えて、なかなか寝付けなかった

五歳児であった。

 

翌朝の朝食時、「ゆういち、おはよう」と

声をかけた死体の状態にある母親であった。

この時も死体の母に返事が出来なかった。

そして、この五歳児は、死体の母が作った

朝食は、安全なのか?食べていいのか?との

疑問も湧いた。だが食べた。

食事中、死体の状態の母が死体の父の弁当を

詰めていた。そして、死体の父は弁当を持って

仕事場に向かう。

「ゆういち、行ってくるからな」と言って

僕の頭を撫でたのは、紛れもない死体の父で

あった。この時も返事をしていない。

なぜなら、死体の発する言葉に対し、返事を

することもおかしいのでは?

そう思ったからだ。

(注釈)

この記事は、単なる個人の体験を語るに

留まらず、唯一について、人の本性である

自己の魂について、また、人が生きるとは

どういうことかを読者が理解できるように

かみ砕いてゆきます。

そして、説明していることが読者に分かる

ことが重要なので、時系列的な配慮のほか、

必要な情報を挿入します。

 

霊眼・透視能力の開花

夕方になり、空の弁当箱を持った死体の父が

帰宅した。「ゆういち父は帰ったぞ」という

のは、やはり死体状態の父であった。

そこに見えたのは、家を出てから帰宅する

までの時間およそ10時間くらいだろうか。

その父親の行動の記録全部がカラーの動画に

なって再現された。音声の記録も読める。

そして、それらの情報の全部が一瞬で分かる

ことの不思議さがあった。

このように、自然に芽生えた透視能力は、

何でも見える。どこでも見える。便利さ

極まりなし!

 

テレビなど無い時代、ラジオが唯一家庭の

娯楽であった。コタツに入って、みかんを

食べる家族。

そのとき、隣家のおじさんが死んだことを

透視した五歳児は、つい言葉を発した。

「あ、いま隣のおじさんが死んだ!」と。

すると、縁起でもないことを言うなと、死体

状態の母親は五歳児の頭をぴしゃりと叩いた。

しかし、それから直ぐ、隣のおばさんが玄関

に来て、「いま主人が他界しました。葬儀の

手伝いをお願いします」と言って帰った。

それを聞いた死体状態の父と母は、あぽーんと

大きな口を開けていた。だから、ミカンの皮を

投げ込んでやろうと思ったが、やめておいた。

 

葬儀が終えた後日、父と母は、なぜ、隣家の

おじさんが死んだと分かったのかと僕に聞いた。

僕は、それを聞いてショックを受けたのだ。

「なんだって?父ちゃんと母ちゃんは、それが

見えないのかい?!えー 姉ちゃんも見えない

だって・・・?どうなってんだ?」と思った。

なんと僕が見る世界は、家族に見えないのだと

知り、それ以来、見えたり、分かったりしても、

余計なことは何も言わないようになった。

人の目は、うつ張り

正確な透視は、霊能力、超能力ではなく、魂の

基本的性質であるということ。その人の本性は、

肉体ではなく、魂が主体であるから、身体の

肉眼を通して見るところの森羅万象は、感覚が

生み出す画像のようなものと言える。

この体験を持って、三歳児から探求した森羅

万象の背後については、五歳になって、その

概念を掴んだと言えるかも知れない。

画像は、実在するように見えて、まぼろしと

言わざるを得ない。

このことから皆さんの肉眼は、魂の知覚を

惑わす「うつ張り・障害物」だと言える。

だから「うつ張り」を取り去れば、誰もが

霊眼が開花するのは必然である。

それが開花したら、生きている人は、誰もが

死体状態にあると知るに違いない。

この五歳児、生きた人間は、死体の状態に

あると見抜いたが、それを他人に説明する

だけの知識が無かったのは無理もない。