距離は無い

ここでいう距離とは、魂とエゴの距離を

言います。つまり、あなたの魂とエゴと

呼ぶ肉体総体は、どれほどの距離がある

のだろうか?

このことを知識として持つことは、

大きな助けになるのです。

 

二サルガダッタマハラジさんは、手を

伸ばせば、そこにあると、魂とエゴの

距離を説明した。手を伸ばしたその先は、

真我であるとも。

しかし別のページでの説明は、その時、

ロケットのように飛ぶとも言っている。

どこへ???

また別のページでは、心の中から出れば

いいのだと言っている。

 

先生もまた、距離は無いと度々言われた。

しかも手を伸ばさなくとも、そこにある

のだと。

しかし、距離は無いとは、どういうことか

質問する人はいませんでした。質問しない

人は理解したのか?それとも関心がない

のだろうか?

「はい、距離が無いから^^」

問いの創造

映画のスクリーンがあり、そのスクリーンに

映る画像は、スクリーンと距離があると言える

だろうか?ない。

そしてまた、あなたが自分の身体だと思って

いるエゴ、その周囲空間にある大気、これらは

距離があるのだろうか?ない。

この世と言う、スクリーンの立体画像は、

立体的なマーヤであり、それをこの世という。

画像を排した立体的なスクリーンが実在だ。

これを人は気付かない。

次の問いは、身体に接する大気は、身体と

距離が無いと認識しながら、もし10憶光年

離れた場所へは、光りの速度で、10憶光年

かかるという思考が物理を学んだ人達には

植え付けられている。本当なのか?

問いの追求

しかしながら人の内奥にある意識が、宇宙に

偏在であれば、10憶光年というのは、思考で

しかないと知る。そこに距離が無ければ移動

する時間は生じない。生じるは思考なのだ。

プルシャは偏在であるから、肉体のあなたが

赴くところすべてに存在していると知ろう。

だから手を伸ばさなくともプルシャは、常に

そこにある。だからプルシャを知覚する悟り

には、時間は1秒もあればいいということ。

ただ、プルシャは、エゴと同一化している

ので、自分がエゴだと思い込む。それゆえ、

自己のプルシャに気づけない。このように

魂とエゴの二人三脚は、絶対的な束縛状態

に置かれる。

これを現実的な観点から説明すれば、魂の

あなたは自分の知覚ではなく、肉眼を通して、

立体的スクリーンの画像、この世の見える

ものに、24時間も釘付けされている。

だから、マーヤの画像を見ることをやめて、

反対の内側を見るならば、そこに全知全能の

自己が存在していると知る。

 

このように、自己を見ることにおいて、何の

霊的修練必要か?世間でいう瞑想、精神集中、

ヨーガ、クンパカ、プラナーヤーマ、神道系

仙道系その他の体系は、すべてが人の思考の

産物に過ぎないと理解しよう。思考の産物とは、

解脱していない人の思考であると言うこと。

スクリーンに釘付けの状態とは、生きることへ

のしがみつき。それが生存欲求。それがエゴの

根強さ。

 

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