瞑想3

これは、瞑想1と瞑想2の続きです。

巷の瞑想本は、思考の産物

伝統あるビッパーサナ瞑想でさえも

真の瞑想だと言えないと書きました。

このことは、他人の瞑想本を読んで、

それを自己流の瞑想本に書くことは、

誰にでもできることと理解しよう。

それが分かるなら、瞑想本に対する

対処法も見えてくるのでは?

見えない?

 

J、クリシュナムルティーいわく、

「真理は道なき大地のよう」だと言って

心の観察を説き、集中、瞑想、ヨーガは、

やるなと言っていた。これが真理は道なき

大地だと言う意味らしい。彼の瞑想本を

読んだけれど、1ページで説明ができる

ことを、10ページくらいに吹かすので、

言わんとすることが分らない。と、人の

ことは言えないが。。。

瞑想1の心の観察について、I,クリシュナ

ムルティーの言葉を引用してあり、その

要点は思考を使わず、記憶や知識を使わず、

ただ観察しろということ。

心を観察するときは全身全霊を傾けて観察

しろと言っているので、それは、無想になれ

と言っているに等しい。それは、既に知覚が

作動する状態を暗示している。この要点は、

先ず初めにそこへ到達するから集中、瞑想、

ヨーガは、要らない、と言っていたのだ。

 

再び日浦の言葉

心(思考)を消し去った者に何の瞑想が

必要だろうか。心(思考)を消し去った

者に、瞑想も心理学も有害でしかない。

それでは、心を消し去るために、瞑想が

本当に必要なのだろうか?

 

成熟しなければならない

この言葉は、先生の口から放たれたもの。

言葉に現れないその意味は、魂の故郷へ

帰ろうとする思いが無い人達がたくさん

いて、そこへ帰る準備が整わない人達も

沢山沢山いるのが現実と描写した言葉。

二サルガダッタマハラジさんもまた成熟

しなければならないと言い、修練が成熟

さを加速すると言った。しかし、成熟な

き魂は、修練を継続するのだろうか?

成熟していない者とは、肉体、この世への

関心が強く、生存欲求を超えようと言う、

いわば自我を超えようとする衝動がない人を

言う。そのような無自覚さを500万年も繰り

返しながら、そのことさえ誰も知らない。

世間には、そんな人達が溢れている。

そんな彼らが瞑想に取り組んでも迷走にしか

ならないだろうということだろう。

 

以前も書いたけれど、瞑想に取り組むには、

修練方法、その技法、テクニックではなく

境地だと述べた。それが全てなのだ。

では、成熟していない魂達は、まだ地上の

暮らし、様々な体験を繰り返せばいいのか?

と言う人はいないだろう。あなたが誰であれ、

この世の苦界から、あなた自身が解放されな

ければならないからだ。

 

皆さん意味のない、結果のでない瞑想なんか

しようと思うなかれ。思うべきは、魂を解放

しようという思いの目的を持とう。その思いが

本物になれば、それを熱望すれば、瞑想法を

知らない日浦が体験した丹沢山中での瞑想が

誰にでも起こり得る。可能性として。