瞑想1

ラージャヨーガ

セミナーが始まったとき、参加者を第一期生と

呼び、そして、セミナーで教えることは、いわば

突拍子もないことと思われるので、それは歴史が

あるのだという証拠を示すため、参考資料として

ラージャ―ヨーガとウパニシャッドの本を渡した

経緯があります。それらの本は、セミナーに持ち

出して、解説などしてはいません。あくまでも

参考資料でした。

ある日のセミナーでは、ラージャヨーガの本を

読んだ人に対し、感想をきくと、

「カタカナ語が多くて読めません(´;ω;`)」

「難解な言葉の羅列で、読めません(´;ω;`)」

「時系列的な書き方の中で、それでも話が

飛び飛びで読めませんでした(´;ω;`)」

「乾燥するめを噛むよりも、さらに硬くて

読めませんでした(´;ω;`)」などなど。

日浦いわく、「歯は、大丈夫ですか?」と、

寒いギャグを返した。などなど不評だった

ようです。

ラージャ―ヨーガは、ビヴェーカナンダ氏の

書籍と言うのではなく、翻訳本です。

僕が読んでも難解だし、話が飛び飛びな部分が

多々あるので、読者に読まれにくい。しからば

時系列的にスッキリ、読みやすく書き直そうと

英語版のその本を書いている途中、パクリ本に

なると気づいて、止めました。

ラージャヨーガの中では、断食を禁じていて、

眠らない人もダメと言っていたり、尾骶骨に

眠るとされる、クンダリーニを呼び覚まして、

それを脳へ到達させろなどと恐ろしいことが

書いてあり、他にも?という記述が多々ある

ので、あの本は、珠玉に満ちた真理の言葉も

散見されるけれど、今では推薦していません。

例えば、クンダリーニという力は、肉体の外に

あるのであって、それは魂の内にある力です。

だから、尾骶骨に眠れる力はカルマの貯蔵庫

なのです。それが脳へ昇るとしたら、、、、

オー、ノウ!ノウ!

ビヴェーカナンダ氏に悪意があって、危ない

ことを書いた訳じゃあない。知らなかったと

いうこと。このように書きだすと、あの本の

全部を書き直さなければ、気が済まない!と

なりそうだから、やはり止めます。

 

ビッパーサナ瞑想

瞑想と言えば、ビッパーサナ瞑想が代表的。

ヴィパッサーナ瞑想とは、ナーマ(心のは

たらき)と、ルーパー(物質)を観察する

ことによって、仏教において真理とされる

無常、苦、無我を洞察する瞑想法らしい。

しかしビッパーサナ瞑想は、仏陀の教えた

ものではないです。ビッパーサナが観察を

入れたことは評価する。けれども観察と

いうのは、思考を排除したものでなければ、

瞑想効果は生まれない、ということを誰も

知らない様子。

アジアの国々では、さまざまな仏教宗派が

あり、それぞれが独自の瞑想体系を持って

いて、それらの何が本当なのか、その全部が

本当なのか、或いは、全部がでたらめなのか、

それを誰も分からない。それらは、すべてが

心の迷走に過ぎないと彼は言う。彼とは?

この日浦のこと。

 

心の観察について

J,クリシュナムルティーは、観察を強調した

けれど、観察と洞察を同義語として説明して

いた。それは即ち、思考を介入しない観察法で

あり、自分の意見、記憶、知識、体験の

すべてを排除して、ただ見ろというもの。

そのような観察こそが観察だと言う。

これが正論。

 

マインドフルネス、ヴィパッサーナ瞑想の

中には、思考を排除するという文言それの

厳格な観察法が言語化されていないので、

それらは、すべてが心の迷走法という彼も、

正論を述べている。彼とは誰か?それは、

ゴーダマ仏陀のサブを務めたもの。即ち

日浦のこと。

では、真の瞑想法は、どこにあるのか?

答えは、完全なる無想を体現すること。

人は、あーだとか、こうだとか、ぺちゃ

くちゃ喋るけれど、魂は無想なのです。

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