神通力2

神通力1の続き。速読しないようにね。

 

父が目撃した天狗様は、山中に籠り、

どのような修行をしたのか、それは

誰にもわからず、僕にも分かりません。

しかしながら山にこもった世捨て人に

神通力と言う現象は生じた訳です。

だから、何かの要因があり、その力が

生まれたと言えるわけです。

 

日浦の場合、電子機器の新製品を開発

せよとの業務命令があり、瞑想すれば

何でも分かる、という根拠なき想念に

従い、丹沢山中へ断食瞑想に行った。

その四日目には、さまざまな超越的な

力が芽生えたという体験がある。

 

天狗様と日浦とは、共に超越的な力を

獲得したことにおいて、ほぼ同じであり、

それを可能にしたであろう修練方法には

各自の違いがあったかも知れない。

 

ここでは、神通力という語を用いては

いるけれど、これを超越的力、超能力、

不思議な力、オカルトパワー、その他にも

様々な言葉を変えて、それを呼び表わす

ことが出来ると思う。

 

現実的な例えとしては、ラーラ北海道の

ダンク家が読んだ夥しい数のスピ書籍とか、

ラーラ府中の膨大な読書歴を見るならば、

それが世間の人の求め方、探究の仕方を

読書に求めることを暗示している。

ラーラ北海道、ラーラ府中の場合、膨大な

書籍を読んでなお、満足しなかったという。

むしろ矛盾や疑問が噴出するだけとか。

だからこそ、異なる書籍を読んだりもする。

もういやだ!という飽きが来るまで。。。

これがまた飽きが来ないんだよね。

読書を休んでもまた知識欲が人を牽引する。

おそらくは、死ぬ直前まで。。。

死してのちは、習得した読書知識、経験の

すべてが灰になるものだ。

それでも君はまだ言うかい?

おお、空しからずや我が人生などと。。。

 

ベーダンタ哲学の一説にある言葉、

「それ」を知れば、すべてが知られるという

「それ」がある。では「それ」とは、いったい

何か?この答えは、汝が「それ」なり。

とある。汝とは、身体感覚の自分と言う意識

ではなく、本性としての魂を言うのです。

 

先生が指示された唯一。そこは、無であり、

何も生じない。すべてが在る。という実に

深淵なる本質的な教え。そこに魂が実在する

ということ。

 

ベーダンタ哲学の「それ」に続く「すべて」は、

唯一に実在する「すべて」と同じもの。これを

嚙み砕くならば、宇宙のすべて、宇宙を包含する

唯一すべてということ。これを人の言葉を持って

描写するなら、「偏在性」と「全知全能」の語が

当てはまる。

 

さて、膨大な読書、高等学問、知識人からの伝聞、

個人の体験、考古学、歴史学など、幾ら学んだと

しても、全知全能になりはしない。絶対に!

 

ここで、再び日浦の体験に戻ろう。

電子機器の新開発を命ぜられ、建築のことしか

知らない日浦は、瞑想すれば、何でも分かる=

「すべて」が分かるのだと確信したからこそ、

丹沢へ行った。

この確信は、ベーダンタ哲学の「それ」を知れば

「すべて」を知るという意味を深層のなかで知って

いたからに他ならない。

それは、瞑想と言うただひとつの行為によって、

ダンク家、ラーラ府中などが読んだ書籍群を

遥かに超えた真の知識を獲得した、ということ。

これは、ほんとうに、もの凄いことだと思う。

でも、皆さんは、どう思うのか?

まとめ

上記に示す通り、時に、プルシャと呼ばれる

魂は、すべての人の本性として実在し、それは、

「全知全能」であると知ろう。

だがしかし人は、全知全能になることはできない

と認めよう。

人が出来ること、成すべきことは、ただひとつ。

「それ」を知ることであり、これ即ち、自分の

魂を知覚することによって「全知全能」に成る

と言うこと。それは、あらゆる超能力、神通力

さえも自分の手中に納めることを意味する。

これも凄いことではないだろうか。

 

このような真理を学んだ後は、ウソが8割ほど

混入した本なんか、もう読むんじゃあないよ。

ただし、単なる娯楽として読むなら差支えない。

結語

自己の本性を知って、全知全能の自由を手中に

収めよう。そこがゴール。

 

神通力2 終わり