神通力3

わたし達は、何者か?

ときどき聞く言葉として、わたしたちは、

どこから来て、肉体の死後、どこへ行く

のか?というもの。

しかしながら、魂が偏在なものであれば、

どこへも行かないと言うことが出来る。

魂は、動かない。動くのは肉体なのだ。

動く肉体を見て、それが自分(魂)だと

勘違いしている至高のプルシャ(魂)たち。

この仮想的な状態への思い込み、束縛から

解放されない限りは、人生は無意味なもの

となる。無意味だけではなく、自己の魂に

とって有害なものだと言える。

なぜなら魂は、その人生に立ち現れること

なく、エゴに振り回されるだけだから。

このような転生輪廻は、早く止めなければ

ならない。

 

現代科学は、肉体が原子、分子、素粒子

だと言うが、それは事実である。

だが素粒子が物質の最小単位だと言う。

それは今後、改められるだろう。

なぜなら魂は、原質と言う物質の最小単位

からなり、素粒子よりも、もっともっと

微細なもの。これが化合物ではないので、

いつまでも変質することなく、破壊される

ことも無。これを人の言葉を用いるなら

不壊の永遠性といえる。

それゆえ人は誰もが、その本性において、

いまもなお、全知全能であるということを

意味する。それは、永遠性、あらゆる知識、

超越的力もまた、現在でも存続していると

いうこと。この力は、あなたのものだから

自由に使えばいいのだ。

しかし、エゴを持つ人は誰もが、魂を封殺

しているから、その力を持ってはいない。

ではなぜ、魂達は、無力な人で在り続ける

のだろうか?

人が無力であることは、人の生き方とか

能力の限界を見れば、世俗の人の力を見れば、

超越者の魂と大きく違いがあることを皆さんも

知るだろう。

歴史を見ると、戦とか、戦争と言う呼び名の

奪い合い殺し合いの絶え間ない連続性を知る。

だから、こんなにひどい世界にようこそ!と

言わなければならない。

あなた(魂)は、なぜ肉体など持ったのだろう?

 

「あるヨーギの自伝」を書いたヨガナンダさんの

師匠の本には、神が十二ひとえの衣を着て、舞を

舞っているから分からなくなった、と書いてある。

このような説明では、さっぱりわからん。

マハルシさんいわく、我々は、エゴ性(肉体)を

付与された霊的存在だと説く。この説明なら、

だれがエゴ性を付与したと言うのだろう?

殺し合って、奪い合いをする厄介なエゴを魂に

付与したものは、いったいだれか?

神か、悪魔か?守護霊なのか?

わたしじゃあない!笑(マハルシさん)

 

あなたは、神通力を
 封印する神通力を持つ

通称の神通力とは、本来、魂のもの。

ところが世間の認知では、五感を超えた

不思議な超越的力を神通力もと呼ぶ。

その不思議な力がどこから来るものかを

普通の人は識別しない。できないから。

魂の性質とか力を覆い隠すのは、心であり、

思考であり、自我、エゴと呼ばれる。

オカルトパワーを厳密に規定するなら、

「エゴの力」と言える。それは、かなり

怖いものだ。

これが、あなたは、神通力を封印する

神通力を持つの意。

しかし、エゴを排除すれば、それは魂の

神通力になるということを知っておこう。

そして、世間のヒーリングは、すべてが

魂を知覚していない者達(エゴ)の力を

使っているので危ない。

お札、お守り、護符などもエゴの念が込め

られている。(日浦の護符は安全です)

 

怖いお守りの事例

車椅子のお母さんから家に招待された時、

招待された家の中には、とても大きな体の

山犬?狼?が家の中にいた。

もちろん霊的な生き物であるから、家族は

それが恐らく見えないのだろう。

僕を睨みつけはするが、近くには来ない。

おかしいと思って、調べたら玄関の上には、

三峰神社のお札があった。その三峰神社では、

山犬の生霊を封じ込めたお札を売っている。

売ると言うか、レンタルなのかも知れない。

狼か山犬の生霊なら、欲望が丸出しの獣が

その家に住み着くということだ。

これが家族に影響を与えるだろうことは容易に

分かる。だから皆さん怖いと思わない? 

いえ、見えなければ、怖くありませーん ?

それでは、夜中にトイレに行って、ドアーを

あけたら、そこにいた!というなら?

事実、誰とは言えないが、この山犬の生霊は、

家族の某者に不幸を呼び寄せていた。

帰り際に、霊的な山犬がいるとは言わないが、

お守りを捨てなさいと言った。その返事は、

「分かりました」だったが、捨てていない。

この人が霊的障害の該当者なのだ。

 

神社仏閣は神聖な場所か?

獣の生霊を封じ込めたお札を売る神社。

そうは書かないが、お札を売る神社群。

このような神社は霊験あらたかな場所か?

本当は、とんでも神社ではないのか?

神社をはやらせるため?むかし、空海?

だったかな?有名な高僧が立ち寄ったと

言うけれど、その証拠は何も無い。

いくらでも箔つけはできるものだ。

だからどんな箔つけの神社・お札でも

信じるよりも、信じないほうがいい。

 

本当に、霊験あらたかな真の聖域は、

あなた自身の中に在ると知ろう

どうして、そこへ行かず、有名どころの

観光スポットへ行くのだろう?そこは、

お持ち帰りもする危ないところだよ。

 

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「お守りは安全か?」「神社は神聖な場所か?」