生は エゴ

ここでいう生は、生命活動のこと。

生きることの総体、生きる望みや

生きる希望を包含した広義の意味を

もつ生。

その生は、エゴだと言う、新しくも

聞捨てならない言葉は、今までの説明に

よって、読者の皆さんもおぼろげに

分かるのではないか?

これ転じて、生命活動の人生そのものが

エゴだということ。このことも皆さんが

分かるようになったと思う。

 

絶対的事実として、あなたは生まれて

いないのだから、わたしは生まれたと

いう人の生命活動の人生自体がまぼろし

だと言う正しい理論が展開されるのです。

 

🔸愛とは なんですか?

二サルガダッタマハラジさんは、

『愛なくば、生命さえも苦痛になる』と

言っていた。それはそうであるけれど、

この言葉を日浦流に説明するならば、

下記にようになります。

『自己を封殺するなりすまし野郎のエゴに

愛がある訳もなく、生まれていないものに

生命もある訳が無いのだ』と。

続いて『ホログラムとしての自我、エゴに

愛などある訳もなく、ホログラムとしての

身体にも生命がある訳もないのだ」と。

これ即ち、「生まれた」「生きている」と

いう観念こそがエゴの実態なのだと。

このことから、日浦ブログでは、愛と言う

語を一度たりとも語ったことは無いです。

愛が大切だとも語っていません。加えて、

j,クリシュナムルティーの言葉を添えた

ことがあります。

クリシュナムルティー曰く、「自我が死滅

した時、愛が立ち現れる可能性がある」と。

このような説明を皆さんどう思うのか?

世間には、愛を語る者がいるけれど自己を

悟らない人は、自己を封殺しているエゴです。

そんなエゴが語る愛とは、何じゃらほい?

同じく神の愛を語る宗教もエゴのもの。

なぜなら神は存在しないのだから。読者の

皆さん神とか愛と言う言葉を使うものには

騙されるな。

 

ここで100歩譲り、肉体に生命があると

主張する人に対し、問いたい。

肉体に生命があると言う論拠はなにか?

医学的な説明は、本当なのか?

生まれた生命がなぜ消え去るのか?

その生命は、どこへ行ったのか?と。

このことについて過去記事を読んでは

いない人に向けて、再度説明をします。

身体そのものは、生命がないものだから、

生きていない。感覚という器官があれど、

それも働いていない。しかし魂が身体に

接触するとき、生命無き身体に生命現象が

現れて、心肺と内臓も動き出す。同じく、

感覚器官に知覚作用が生じて、身体感覚が

生まれて、人は生き物のように活動して、

生命があるように見える。

このことを最初に認識したのは、5歳の

ある夕食時だった。

🔸人は知的生命ロボット

上記の認識から、人は有機的ロボットの

様だと知ったのは二十歳の時だった。

これを少しばかり今風に言えば、魂と言う

不可知なるエネルギーのメイン電源が身体に

入ると、または接触すると、生命無き身体と

言う有機的マシーンが生き物として起動する。

その有機的マシーンは、細胞分裂する、喋る、

考える、笑う、哲学する、科学する、食事を

する、眠る、子供を産み落とすなど、実に

働き者ではある。しかし、これらもホログ

ラムの中で生じる現象だと理解しよう。

もし、メイン電源が魂の純粋な知覚だけで

あれば、有機的ロボットは、喋らない、

思考しない。なぜなら無想の魂が支配する

から、ロボットが勝手に喋ることは無い。

しかし、その有機ロボットが「わたし」を

主張して、人生の主人公になるという実に

恐ろしい理由は、既に述べた通り、大脳と

感覚の働きがまぼろしを生み出している

からである。

悲しいかな自分の身体がホログラムだと

知ることなく、身体が自分だと思う者は、

自我と呼ばれる。或いは、心とも言う。

マインドとも。

だから、心が大切だと言う人は、記憶の

生み出した「わたし」という自我意識に

よる自己主張なのだと理解しよう。

このことが「わたし」は、単に記憶でしか

ないと言う意味。そしてまた、自我とは、

存在しない観念に過ぎないと理解しよう。

この認識がなければ、魂を知覚することは

できないと知ろう。

🔸人生は エゴだよ諸君

人が自己の魂を知覚したとき、その時のみ

わたしは生きていると実感するも、身体は

やはり自分ではないとの明晰な理解がある。

このことは魂にとって、身体は必要物では

無いということを意味する。間違えて身体を

知覚しただけ。自己を悟れば、身体は、

あっても無くても何ら支障がないと知る。

 

🔸諸君の人生は エゴだよ

このことから、自己の魂にとって、人生に

しがみつくのは、どこの誰か?と問わなけ

ればならない。しかし人はその問いを持つ

ことは無いとは言わないが、極めて少数だと

いうこと。

少数派に属した先生も僕も「わたしは誰か?」と

いう強烈な問いを自分の内に持ったのは、共に

小学生だった。僕の場合、その問いにより、

自分の内奥から、それはそれは、荘厳な声が

やってきて、その解を示したけれど、受け

入れる知性が整っていなかった。

 

人生はエゴであるならば何を体験しようと

魂のあなたにとって、空しいものではないか?

これを言い換えれば、生きているという観念の

感覚的なエゴが、わたしと言う名の記憶が、

人生全般を織りなしているということも事実で

あって、その人生は、ただ一度たりとも自己が

現れたことがないという、これまた驚くべき

事実がある。

人生の中で、もしも一度でも自己が現れたなら、

それが解脱と呼ばれ、目覚めとか覚醒とよばれ、

生まれていない自己に目覚めて輪廻徘徊は終わる。

この説明を読み、ショックを受ける人は僅かに

気づきつつあると言えるけれど、それがどうした?

というような人は、深い深い眠りに落ちていると

言える。というか、エゴ度100%と言える。

心地よく眠りに落ちた人を目覚めよと言って

揺り起こすのは、迷惑なのかも知れない。

 

自己を知覚しないままの人生は、その人生が

どんなに素晴らしいものであれ、苦渋に満ちた

ものであれ、それらのすべてがエゴの活動に

よる人生なのだと、ハッキリと知らなければ

ならない。

🔸自我の終焉

自我の終焉は、j,クリシュナムルティーの書籍

タイトル。これを別の言葉を持って語って来た

訳ですが、あなたを狂わせて生にしがみつくを

余儀なくする原因、それの解消がエゴの消滅、

思考の消滅だと皆さんは学んだのです。

それを実践する、しないは、自己責任です。