真説仏教

サマディー・没入・解脱、自己覚醒・

涅槃、ニルヴァーナー、その他いろ

いろな言葉があるけれど、それらは、

自己の魂を知覚することの心理的な、

かつ肉体的な状態の呼び名です。

心理的な変化とは、思考が働く表面

意識と呼ぶ顕在意識層から、思考が

働かない超越意識へと移行し、

さらには、思考が無い無意識界へと

移行し、遂には「無」を体現する

瞬時の変化過程を言い、

一方の肉体的な変化は、エゴと呼ぶ

生存欲求の全てが根こそぎ消え去り、

それにより、思考や感情、記憶が消え

去り、肉体の神経組織と分子レベルが

新たに再生されることを意味します。

これらの変化は、変容と言う言葉と混同

されるかも知れないが、世間が言う変容

とは、要は変化する思考の動きに過ぎない

と知り、変容を特別なものに期待しない

ように。

あえて変容の本当の意味を述べるなら、

心と肉体(二人三脚状態の魂を含む)を

支配していた心とエゴが消え去り、エゴの

代わりに、純粋なプルシャが肉体の支配者

になるという本来的な変化のこと。

もし、変容と言う語を使う人は、これを

知っておこう。

🔸潜在意識は、魔境なり
妄想的なスピ系?それともネットに

へばりつく無知なる細菌なのか?

それは、潜在意識を活用せよと言う

輩達のこと。彼らは、極度な無知か

それとも人心を惑わす悪魔の申し子

であるか。その理由は、下記を読めば

分かります。

 

意識とは、その中身を総称する言葉

であり、意識の中身無くして、意識は

あり得ない。動きようが無く働かない。

潜在意識と言う文字が示すのは、記憶が

潜在する意識層だと誰もが分かるもの。

そのような意識の中身とは、心と同じく、

その殆どが思考、感情、学習、体験の

記憶であり、恨みや妬み、愚痴や怒り、

善も悪も混濁したエゴの記録であるから

こそ、それらが潜在する潜在意識層とは、

まさに、カルマの貯蔵庫であり、それが

魔境だと言えるのです。事実そうです。

無意識界は、何もない。なにも無いから

汚れが無く、純粋さ、気高さがあるだけ。

このことから、記憶を蓄積する意識界を

取り去れば、そこは純粋な「無」が残り、

「無欲」「無私」「無想」という三宝を

手にする無こそが魂の存在性を示す偉大

なものなのです。

このことを皆さんは、このブログで

すでに学んだのです。

 

現代では、多神教と揶揄される古代の

ヒンズー教は、上記の説明について、

約1千個の名称が生まれたと言う。

しかし、それらの呼び名、名称は人の

それぞれの意見であり、思考が名付けた

ものであり、名称は重要ではないです。

自己即ち魂を知覚することそれのみが

重要です。

次いで重要なのことは、魂を悟るという

思い、魂を思うという考え方などは、

やはり単なる思考であり、そのような

考える、思うことを排除することです。

なぜなら、魂の知覚を阻害するものが

欲と思考であるからです。このことは、

魂を知覚する必要条件として、思いとか

思考を消し去らなければならないことを

意味します。思考はエゴであり、エゴが

魂を殺す者だから。

思考を消し去った時のみ、無想の魂を無想の

自らが知覚し得るということ。従って思考は

無想を知覚することが出来ないと理解しよう。

頭のいい人の抱く傾向は、ああでもないとか、

こうでもないとか理屈をこねたり、科学的な

論理性が足らないなどと思考を加速させて、

思考を増幅させはするけれど、なかなか思考を

捨てようとしない。心は、学問や知識が自分だ

と勘違いしているから。

 

「名称」については、ファンタジー仏教の
勘違いが下記に書いてあります。

マーナルーパ 十二支縁起の第3支の「名色」
(マーナ・ルーパ)の「色」 ・「色貪」
(しきとん)の「色」 色界と無色界に
結び付ける「五上分結」の「色」 仏教用語。 
サンスクリット語やパーリ語のルーパrpaの
直訳。 およそ人間の目に映ずるものは形あり
色 (いろ)あるのであるが、それをインドでは、
形よりも色 (いろ)の側面で取り上げてルーパと
いうのです。

上記の説明は、さっぱり分からない。
説明している者も分っていないから。

 

真説仏教

諸々の比丘、比丘尼たちよ、聞くがよい。

全ての物には、人が名付けた名称がある。

その名称を思う、語る、唱えるは、人の

思考なり。これ即ち常に流転して変化する

思考は実在ではあり得ない。

全ての物は、無色界と呼ぶ実在から見る

ならば、流動変化して、やがて崩壊する

定めにあるものである。

ゆえに、この世はまさに、まぼろしの

如く流転する。

この世に生まれてはいない諸々の比丘、

比丘尼たちよ、まぼろしのこの世に

執着することなかれ。まぼろしとして

現れるこの世への執着を解き放つ道は、

エゴが生みだす欲を離れて、全ての物を

名称を使うことなく無くただ見よ。

思考を消し去れば、ただ見るならば、

人が命名した名称も消え去る。そして、

変化する物質もまた、その形を離れて、

形が現れる源をみる。そこが無色界と

呼ばれる実在である。

諸々の比丘、比丘尼たちよ、この教えを

行ずるならば、即ち思考を消し去るならば、

汝らは、生まれていない永遠不滅の自己を

悟るのだ。諸々の比丘、比丘尼たちよ、

この修行を完成させよ。

          ゴーダマブッダ

これに先生の言葉を添えて見るならば、

「自分の頭のハエを追い払った者、即ち

思考を消し去った者こそ、一人前である」

という完成形を見ることが出来るのです。

そして更には、一人前以上の世界がある

ことを知っておこう。