断食瞑想3

過去には、読者の参考にならないとし、

削除した丹沢山中の断食瞑想の記事。

 

超速読術を放棄しよう

この再掲記事は、どれだけ長く続くか

分からない。けれど、この第三話が

佳境に入るものです。だから皆さんの

得意な超速読術を横において、意味を

くみ取って欲しい。

皆さんは速読術の大家だと例える意味が

分かるよね?初めて来た人達もいるから、

再度の説明をしておこう。

哲学的、宗教的、或いは超越科学的には

難解なる長文も、さーと素早く読んで次の

記事はナンダ??と言って、読んだことを

すぐさま忘れる人のこと。これは現代教育の

弊害で、詰め込み主義とも言う。

特に頭のいい人に見られる傾向と言える。

思考の脆弱性

もしも、自分が知らないことを読んだなら、

それをサーと流し読みすることなど、本来

できないものです。なぜなら記憶力の旺盛さ、

その再生速度の素早さは、頭がいいという

ことと別物です。なぜなら深い意味を見落と

しやすいので。これは、思考の脆弱性。

本当に頭のいい人というのは、自然に身に

着いた速読術を否定して、一を聞いて10を

知るという意味を考察するならば、

一(1)を聞いたら、隠された九を知る人

こそ賢い人ではないですか?

十(10)引く一(1)は九であり、九が

既知の論理的知識や記憶や体験値ではなく、

文字に現れない意味論から生まれる本当の

知性なのです。現代教育は、それを教えない。

知識は、明らかに脳と記憶の反応であり、

記憶とその既知の知識に無い意味とは、

これ即ち、プルシャの知性だということ。

 

丹沢山中・初日の夜

研究室での瞑想の準備期間、思考の二元性を

知る。だから山中の不安や恐怖は、まだ生じて

いないところの、空想、妄想だと知り、それらを

相手にしなかった。

蝋燭は、深夜の零時になったら点火して、

心の観察、動き、その所感をノートする

予定であった。真っ暗闇の山中では人も

いないし、いまの時代のスマホも無く、

街の明かりさえない静寂な暗闇は時間が

えらく長く感じた。

暗闇の中で、瞑想は、どうやればいいか

分からない。知らないから。同じく心の

観察もやり方が分からない。知らないから。

だからまずは、断食瞑想に来た動機を思い

出すことにした。何をしに来たのか?なぜ

山中の断食瞑想なのか?そのようにして、

ここへ来たのか、いわば記憶をたどれば、

おのずと心の観察が行えた。

そして、それら動機の記憶をたどるのは

簡単だと知る。心の内面に視野を向ければ、

おおまかに、観察の仕方が分かるもの。

思考を見るという体験

心の観察が始まると、観察行為のそれは、

思うこと、考えることとは、全く異なると

理解する。つまり心の観察とは、思考が

あってはならないものと知った。

何かの想いや思考を捕えて、それはなぜか?

どうしてそういう感情が湧くのか?という

ような自己分析は、自己分析などではなく、

単に理屈を込ね廻すだけの単なる思考だと

気づくもの。

このように、この丹沢山中において、思考の

危険性を知り、心の観察法を見出した。

丹沢山中に来る前から、ノートとペンを用意

したのは、心を観察しようと言う知性とそれを

記録しようとする知性とが既にあったと知る。

何かについて、思い考えるだけなら、なにも

山中へ籠る必要はない。この山中へ来たのは、

自分自身も知らない思考を見るため、思考を

観察するためだったと知る。

数日後、この気づきが凄いことなのだと知る

ことになる。

その凄いこととは、思考と思考の源を見る

体験が待ち構えていた。

 

断食瞑想4へ続く