生まれていない

その子は、三歳児から五歳まで、五歳児から

七歳児まで、更に六十代半ばを過ぎるまで、

様々な超越体験をしながら、また普通の人の

生き方をしながら、しかしながら自分の本当の

正体がハッキリ分からず、脇道にそれたり、

迷いが生じたり、無駄な生き方をした。。。

と知る。

こうした曖昧な生き方は、皆さん自身も体験

しているその最中にある。と、知ろう。

 

表題の「わたしは、生まれていない」という

意味について、皆さんの間違った思考方法を

変えるべく説明をしよう。

ただし、探求の初めに生まれていないという

言葉の理解が難しいので、それを脇に置こう。

 

人生は事実上の夢だよ

人生は、夢の如しと言う言葉もあり、それを

哲学した先人もいたであろうことを知る。

夢について考えること。

夜に就寝する時、あしたの朝、目が覚める

のか?と心配する人はいないだろう。

それは何故か?と考えて見よ。

 

夢の中では、自分という記憶が曖昧になり、

体も感覚もハッキリわからない。見る夢は

不思議なことを多く見る。非現実的な夢を

見る。そして、夢でさえ夢だと夢の中で知る

人は少ない。

僕の場合、夢の大半は夢だと知りつつ夢を

見ていた。その眠りの中で、目覚めようと、

目覚めて起き上がろうと、何度も頑張って

みたけれど、絶対的に無理であった。

おかしな、いい加減な夢を誰が見るのか?

その正体をあなたは知っているのだろうか?

記憶の集積から、おかしな夢を紡ぎだし、

あなたにそれを見せるのは、心なのだ。

夢の中で、知る、知らない人が語るのは、

あなたの心が想像的に創造した言葉だ。

 

しかし目が覚めた時、あれは夢だったと

知るけれど、変な、いい加減な夢を創作

したものは、また、その夢を目撃した者は、

どれも目覚めた状態の心と言うあなただ。

だが人は、この自覚さえも無い。

このことから、心の観察が必要だと言う

教えが生まれた。

 

しかし、目が覚めたと言うのは、わたしと

言う観念のエゴが立ち現れたということを

意味する。だから本当に目が覚めたのでは

なくて、休息中のエゴが目覚めて発動した

ということ。そして、エゴが目覚めて発動

することが真の自己を封殺する行為になる。

これを「感覚器官が閉じた夢」と呼ぼう。

 

感覚器官が開いた夢は、眠りの中で見る

夢よりも、現実的なハッキリとした妄想

なのだと知ろう。なぜなら、真の自己は

爆睡の状態にあり、それゆえエゴが大手を

振るって活動するのだから。

 

続いて、目が覚めたという認識は、エゴの

ものであるならば、エゴそのものが目覚めた

と言うエゴそれ自身の発言であって、それは

エゴではないところの本当の自己が知られて

いないということを意味する。これを知ろう。

ここが肝心なのだ。

このことは、目覚めて日常の活動をするのは、

存在性の無い観念としてのエゴであり、真の

自己ではない!!と知ろう。しっかりと!

だから貴方が考え、思惟して、決断を下すのは

実のところ、あなたではなく、エゴの活動だと

いうことになる。

これを「感覚器官が開いた夢」と呼ぼう。

 

人生は、妄想のまぼろし

感覚が閉じた状態を眠りの夢と呼ぶ。

感覚が開いた状態を目覚めた夢と呼ぶ。

このように、寝ても覚めても、人は

いつも眠りの中にいるのだから、

あなたが言う、また人が言う、わたしは

生まれたは、どういうことか?と考え

なければならない。

わたしは、生まれた!と言うのはエゴに

よる創作された妄想では無いだろうか?

或いはまた、お前は生まれたよ、と親から

教わったその記憶そのもの。

だから、わたしは本当に生まれたのか?と

勘ぐらなければならない。生まれたという

観念を疑え!

 

二歳か三歳児のいう夢は、可愛いものだ。

しかし、40歳から60歳を過ぎた人の夢は、

可愛さが消え失せていて、もはや救いよう

のない頑迷なまぼろしの夢を見る人だ。

人は悟れない

そんな人にも救いはある。それは、感覚

器官がもたらす二種の夢から目覚めること。

二種類とは、感覚器官が閉じた夢、そして、

感覚器官が開いた夢。

仏教界のいう目覚めた人とは、二種の感覚

器官を超えた目覚めた人をいう。

ただし仏教では、二種の感覚から目覚めた

人と言う記述は無いだろう。その事実を知ら

ないのだから。

だから、いくら仏教を習得しても人は感覚と

思考を持っている限り悟れない。なぜなら、

悟りは思考と感覚の彼方にあるからだ。

それゆえ思考と感覚に支配されている限り、

解脱もできない。

悟りが無い、解脱が無いのは、思考と感覚が

生み出すエゴが支配しているからであり、

偽りのエゴが存続する限り、真の自己は封殺

されたままなのだ。

 

それを可能にするのは、つまり悟りを得る、

解脱を果たす、真の自己を目覚めさせるのは、

人の思考と感覚を超えているところの非物質

なるプルシャと呼ばれる存在である。しかし

彼は、人の身体、心と言うエゴと同一化して

いる状態にあるので、プルシャの強大なる力と

知識を完全なまでに失っている。そしてまた、

心とか、思考、感情の情念が自分のものだと

勘違いしているので、自分は封殺されている

という自己認識も失っているプルシャ。

それが悲しいかな唯一実在の彼である。

彼とは誰か?

彼とは、すべての人の内奥に輝く非物質の

知性ある存在。時間と空間を超えた自由な

超越者のプルシャ。

それが人の誰もが、唯一に定住する自由な

プルシャだという究極の教え。プルシャとは、

あなたの本質である真の自己であり、まぼろしの

物質世界へは生まれて来ない。

 

皆さん、唯一実在がまぼろしの世界に生まれる

ことは、あり得るだろうか?と考察してみよ。

 

この世に生まれてはいない自己のプルシャを

知覚することが人生のゴールだということ。

 

この記事を読んだ読者等は、これを知識として

学んだから、あとは各自の実践のみ。