最後の教え

これが皆さんに伝える
     最後の教えです

 

【無断転載禁止】

 

思考の彼方
人の体と心、思い、思考などの成り立ちは、
原子から分子、素粒子などの微細な物質と
感覚、記憶その反応であり、これらの思考に
よっては、粗粒子よりも、更に更に微細な
「原質」と呼ばれる自己の魂を知覚・認識
できないと知ろう。

それゆえ思考は、原質から成る「魂」を知る
ことはできない。ただ思考が出来ることは、
魂について考えたり、空想したりするだけ。
考える、思考する、空想するは知覚と異なる。
それゆえに「知覚」と「思考」は、まったく
異なるものであって原質と知覚は共に思考の
領域を超えているもの。


没入
ここでいう「没入」は、ラージャヨーガの
教えるサマディー、仏教用語の「解脱」と
「涅槃」とも言われているものであり、
それは、超越意識の境地を指しています。
つまり、自己の魂を知覚したとき、それを
没入した、と言う。或いは、感覚から没入
したと言うもの。

記事「対話集6」に書いた「神」の説明は、
唯一、真我、アートマン、自己、セルフ、
ハート、クンダリーニなど、およそ千個の
名前が太古の人によって付与されたもので
あり、それは、「自己の本性」についての
性質を意味しています。

この「自己の本性」は、古典宗教でも現代
科学でも未だ知られてはいない。なぜなら
科学も宗教も、非実在の思考によるもので
あるから。

自己の本性を別な言葉をもって説明すると、
「唯一」と呼ばれる実在の霊的世界であり、
そこに定住する無限数の「魂」と呼ばれる
「原質なる魂」の事です


これらの説明から明らかなのは「没入」は、
悟りであり、涅槃の事であり、解脱であり、
即ち「自己の魂」を知覚することであり、
それは、感覚、思考、記憶からの遮断です。

このように、悟り、解脱、涅槃、アートマン、
セルフ、クンダリーニなどの体現は、思考の
彼方にあるもので、思考によっては、決して
捉えることが出来ない。理性も思考の範疇に
あるので、悟りを知覚できない。
つまり、感覚遮断によってのみ、感覚と思考
から離れ、カルマと言う記憶から自由になり、
ついには、自己の本性は見出されるもの。
あれこれ考えずに、没入を視野に入れよう。

感覚遮断
思考の消滅は感覚遮断と言う没入と同時的。
悟り、解脱、涅槃は、感覚遮断であるから
感覚と異なる魂を知覚する条件と言える。
感覚が遮断された瞬間、超越意識の自己を
知覚することができる。感覚遮断なくして
超越意識を知覚することはできない。
しかし哲学、科学、心理学、宗教学などは、
すべてが思考の運動であるから、それらは
悟りにほど遠いものと知ろう。

セミナーを受けて真理の知識を学んだ事は
良い。あなたは知的に満足しただろうか?
それとも未だ分からないと言うのだろうか。
だが、次のことを理解しよう。
「真理の知識を学んだだけで、その実践が
無ければ、単なる知識という思考に留まる
平和ボケ」であると。

感覚遮断が不安だって?
あなたは、身体でも心でもないのだから、
身体感覚もあなたではないと知らなければ
ならない。そのことは、耳にタコができる
ほど聞いたのではないか。

だから例え身体が死のうとも、そこへ没入
しなければ、過去に500万年も生まれても、
自己の魂を救済することが出来ないのだと
知ろう。これさえも知識に過ぎない。

何百万年も転生する諸君、それは、身体的
感覚的な生き方の無限的連続的な繰り返し
ではないのか。それを終わらせることが
感覚の没入なのだ。


没入は魂を知覚することであり、それは
感覚が遮断されるので、車の運転中や屋外
では慎もう。自分の部屋が良い。没入の
必要時間は、わずか数秒あればいいことも
知っておこう。
あなたはいま、自分ではない肉体を見ている。
その視野を変えて、自分の魂を見ることが
没入の意味。ただそれだけのこと。

無欲、無私、無想の自己を覆い隠すもの、
それが主に思考と欲望であって、それらは
感覚から生じるもの。ゆえに感覚遮断という
没入無くして、自己の悟りは無し。

自らの意志により、そこへ飛び込まない限り、
幾ら待っていても、没入(サマディー、解脱
涅槃)は決して生じない。

没入の感覚遮断が生じた時、それは、既に、
そこに、共にあったのだと明晰に知る。
それ、共には、「唯一」と「自己の魂」の
こと。そこが万人のゴール。

悟りは、真理の知識を超えた行為(没入)に
あるので、この行為(没入)無くしては、
自己の救済は起こりえない。これも知識。

日浦ブログ真理の知識  完