記憶は障害

記憶・思考・欲望は
      自己の障害

 

人は、パスカルが言ったように、考える

葦ではあるけれど、それは、記憶する

生き物、記憶を再生する生き物と言って

いいもの。

何事についても、記憶に基づいて考えたり、

行為したりする。

それゆえ記憶が人の尊厳に様に扱われたり、

記憶力がいい人は、頭がいいと言われたり

する。多分、本人もまたそう思う。

逆に極度に記憶力が悪いと、うまとしかだ

などとも言われたりもする。

 

学習と体験の記憶、その再生はカルマだと

説明したので、記憶力の良さは、頭の良さ

とか、優秀さとまるで違うことになります。

なぜなら記憶が再生されるときは、記憶が

思考とか思い、また欲望に変換さるので、

その思考・欲望が知覚されるので、無想の

魂を知覚するうえでの大きな障害になると

いうこと。

☝ここをしっかりと理解しよう。

 

記憶が再生されるとき、それは渦巻きの

エネルギーであるが、思い、思考として

立ち現れ、あなたにそれを吹っ掛けるので、

無想状態の魂を知覚させない。

これが自分(魂)が自分(魂)を殺すと言う

意味です。いつの場合でも人は思い、思考を

捕えていて、無想になる暇を造らない。

ときには、誰もが頭が痛くなるほどに考え

込んだりもする。

 

魂は、知覚によって、宇宙や世界を知覚

するので、思考の必要がない。記憶さえも

しないので、記憶に縛られない。様々な

条件付けが無い。いつも無想の状態にあり、

それゆえ全知全能的であるけれど、全能の

無想を破壊するエネルギーが、カルマ、

記憶、思考、想い、欲望だということ。

記憶は、人の生き方に必要であり、魂には

障害物だということを理解しよう。

 

人の本性たる魂は、身体に宿らず、生まれて

いないので、人に知られず、追憶の彼方、

思考の彼方、欲望の彼方に存在しているため、

人の思考や知性、理性は、魂について、思う

こと、推理したり、考察することはできても、

直接知覚することがない。

地上の宗教や哲学は、人の思考の産物です。

だから多くが真実ではないし、真理でもない。

 

人生は、無駄な障害です

人の一生とは、これ即ち、たえざる記憶の

再生であり、それが、思考と欲望の投影に

なり、それゆえ人の人生は、カルマ再生の

連続性でしかないということ。

だからこそ、いつもあなたは、無視され、

疎外されて、無きものにされている現実。

このことから、あなた自身(魂)は、あなた

の人生には、一度たりとも立ち現れたことが

無いという衝撃的な現実があること。

にもかかわらず「これが我が人生だ」などと

人はいう。いったい、だれが、そのような

ウソをいうのだろうか?

皆さんは、そのウソをつく者が誰なのか、

このブログで知った。その知識を得たなら、

どうすればいいか分かるのではないか。

人がやるべきことは、カルマを消し去ること、

つまり記憶を消去すること。それにより欲望と

思考は生まれて来ないと言う事実に到達すると

いう正しい論理に到達するのです。

このことから、人生が無駄な障害だと言うのは、

身体感覚と同一化した魂に取って無駄なのです。

 

世俗的に頭のいい人は言うだろう「日浦よ、

おまえはおかしい。人は頭蓋骨に保護されて、

思考器官としての大脳を持っているのだから、

思考こそ人間の証明なのだ」と。

そういわなくても、そう思う人は、この記事を

もう一度、読み直そう。

 

あなた自身は、生まれていないし、本当は、

人ではないと日浦は言うなり。

たとえ、あなたが世界有数の科学者であれ、

世界的な経営者であれ、自分の魂を知覚して

いなければ、足元を這うミミズと変わらない。

ビヴェーカナンダ。

自分の頭のハエ(思考)を追い払った者こそ、

一人前なのだ。先生のお言葉。

 

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「あなたは、生まれていない」

「記憶は障害」「人は、生命ロボット」