不食体3

【無断転載を禁じます】

記事の不食体2では、先生のような完全な

不食体を実現するために、それへの説明を

かみ砕くと書いた。

しかし身体の個体差、心の個人差が大きいし、

個人のカルマも大きく関わるので、万人に

有益と言える情報を書くことが難しいと思う。

このような前置きをしておながら、それでも

万人に共通する基本情報を書こうと思う。

 

断食、不食は、カルマ

すでに、その説明を述べたけれど、先生の場合、

幼少期から何も食べない、何も飲まないのだと

おっしゃっていたが、それを誰かに教えられた

訳ではないと言われた。すると食べないという

本能ではないかと思われる。

そのような完全な不食体は、50代の現在でも

安全に継続しておられる。そして、すこぶる

健康体でおられる。

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だから食事とは人にとって、本当は、まったく

必要が無いものだと言うことを社会に証明されて

いると言える。この世界は広しと言えど、滅多に

おられない稀有な存在。凄いね。

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それはなぜか?と言うならば、カルマ故と

みなすべきである。では、カルマは何かと

いうならば、過去世においても不食体を

体現していたからだとしか答えられない。

 

では丹沢山中の断食瞑想により、期待して

いなかった不食体を獲得した日浦の場合は?

先生いわく、「日浦さんは、過去世でも断食や

瞑想を嫌と言うほどやっていたからです。」と。

続けて、「過去世の体験を思い出したから」と。

つまり、日浦が獲得した不食体もカルマ故だと。

 

カルマの原理

カルマとは、サンスクリッドの行為の意。

行為を生む原因となるものが記憶であり、

そしてまた、記憶の再生だという意味に

捕えればいい。

記憶が無ければ、日常生活が送れない。

それは、誰でも分かること。

では、再生とは、どういうことか?

学校のテストは、記憶が必要であり、

その再生が無ければ、回答を書けない。

もし知人に出会って、その彼を彼だと

知るのは、記憶の再生ゆえである。

これも皆さん分かる。

このことは、日常の思考や行動を動かす

ものが記憶であり、そして、その再生と

いうことになる。この連続的な反復現象が

カルマだと言う意味。これも分かるよね?

カルマについて、というか本能についてと

書いてあるか、ラージャヨーガ本の中では、

過去に体験された理性だとある。理性と言う

言葉を抜き取れば、過去に体験された諸々の

事象、様々な学習、すべての体験総体だと

いうこと。本能は、カルマ。

だから、誰もが知らずともカルマの集大成

として生きている。人はカルマそのもの。

このことから、下記の事が明らかになる。

 

人生を不幸にする
  カルマのエネルギー

思い込み、不安、心配、憎しみ、恨み、

妬み、愚痴、怒り、ウソ、他者批判、

嫉妬、うぬぼれ、自己嫌悪、搾取、暴力

などなど、諸々のネガティブな思いや

行為など、それらはカルマになっている

という事実。カルマの現れと言っていい。

こうした想念(カルマ)が、状況に応じて

立ち現れる。だから、不幸を引き寄せて

いるというのも事実。これに気づく人は

極めて稀だ。

 

不食の原理的説明

上記のカルマ理論から導かれる答えは、

食事をすることも永い歴史をもつ習慣の

産物であり、食べるというカルマゆえ。

人肉を食べるのもカルマ!

しかしながらもし、どこかで、食べない

習慣を持てば、その習慣が確立したとき、

確かな不食のカルマになるのも事実。

不食の原理は、医学や科学で分からない。

科学や医学が、もし不食を勧めたなら、

医者はいらず、食の産業は成り立たない。

完全な不食体現者が極めて少数であって、

その原理を分かる人は更に少ない。

というか、体現者自身も説明ができない。

僕の体験は、断食瞑想5に書いた。

 

不食体になると   
    霞を食べられる

むかし中国伝承の仙人が霞を食べて生きたと

言う古典的な説明は、そのまま完全な不食体

に当てはまる。霞は、プラナーじゃあない。

霞の正体を知らなくとも霞を食べる不食体に

成ることが誰にでもできるだろう。

何となれば、日浦も丹沢山中へ行く前は、

瞑想も、断食も知らず、精神集中、そして

不食になることも知らず、プラナーだとか、

アーカーシャとか、チャクラ、クンダリーニ、

クンパカなど、それらの知識も言葉も何も

知らなかったから。

だから、それらの名前を知って何になると

言うのだろう。何の役にも立たない。