悟り1

もう記事を書かない、書かないと言った

その記事も、いよいよ終盤を迎えます。

悟りのワンツースリー

悟りという言葉、とりわけ仏教系の知識を

学んだ、いわゆる仏教者達は、心そのもの

の在りようを悟りだと考えている。禅宗も

似たようなもの。

その彼らは、魂とかアートマンなるものは、

存在しないと言う大きなウソ経典を信じて

いる限り、彼らには、魂を知覚しようという

考えとか、思いや行為がある訳もなし。

彼らは、自己流的瞑想により、極めて静寂

なる心を得るかも知れないが、所詮は心の

中にいるので、悟りはほど遠い。

コロコロと移り変わる人の心、その静寂さは、

時に波風が立ち、時に、激しい煩悩と言う

旋風にも襲われもする。

それらに耐えることが修行なのだと言う。

ならば、修業とは激しい苦痛の連続性だと

いうことにもなる。つまり人生は苦なりと。

そんな難儀な修行なんか誰がやれるのか。

仏陀の本当の教えが伝わらなかったファン

タジー仏教なら、???が生じて不思議は

ない。

こうした仏教者等、禅宗系の僧たちを含めて、

日本国内で解脱している人は、誰もいないと

言われた先生。それは事実である。

悟りへの正しい知識は必要であるけれど、

仏典には、「人は誰もが唯一」の知識は無く、

魂の実在性に関する明確な説明も無い。

そのような浅い知識・真実ではない知識に

留まる限り、やはり心の中にいるということ。

詰まるところ、あなたが身体内にいる限り、

欲望と思考は消え去ることも期待できない。

それゆえ肉体から離れて見て、初めて自己の

魂を知る、ということを知っておこう。

 

以前に何度か書いたけれど、悟りは観念では

なく、自己イメージや考えではなく、自己の

魂を知覚することにある、と言うこと。

それは、その境地を会得すればいいだけ。

記事「あなた」に書かれた自己の魂について

正しい知識が得られたのだから、そこへ到達

する決心が必要です。到達は、知覚の到達を

意味する。

では、決心とはなんだろうか?

記事を読んで、そうなか?そうかも知れない、

という知識レベル、迷いがあるレベルでは

まったく駄目で、それは単に思考でしかない。

自分は身体でも心でもなく、自由な魂である

との、ゆるぎない確信に落とし込むならば、

そのような確信を抱くことが出来たなら、

なんら修練は要らない。なんとなれば魂の

意志それ自体、自然とエゴを破壊するから。

自我と同一化した魂は、自分が自我である

と強く思い込んでいるので、魂の確信は簡単に

得られない。

この確信に至るために熱望せよとの教えが

与えられていた。決心と確信は同じこと。

 

魂は、いつも無想であって、何も考えない。

それでいて、ほぼ全知全能的で自由である。

だが人は、あれこれ考える。迷い、苦しみを

享受する。多くは、嘆きの人生を体験する。

あなたの現実の在りようは、無想である魂が

人の体を持つと、あらゆる思考が生まれる。

欲望も迷いも限りない。

考えよ。思考も欲望も人の体の属性であり、

魂の属性ではないと知り、それらは過去の

体験の記憶・カルマの再生だと理解すれば、

欲望と苦との消滅は、おのずと見えてくる

のではないか?

純粋で自由な魂は、身体と同一化している

からこそ、心は汚染され、苦楽を享受する。

しかし身体との同一化がなくなれば、苦楽は

生じないという明確な事実。だから身体から

あなたが離れればいいのだということ。

 

従って、悟りのワン(第一ステップ)は、

あなた自身が身体から離脱・分離すれば

いいのだと分かるのではないか?

あなたが身体との同一化を止めたそのとき、

魂は、自らの独立を獲得し、悟りのゴールへ

到達(魂の知覚)すると知ろう。

あなたが手を伸ばさなくても、魂はそこに

実在している。

だから、悟りには、時間も距離もない。

時間とか距離を生み出す者は思考なのだ。