断食瞑想5

最初の朝を迎えて

テントの中に眠り、朝を迎えた。

目覚めても空腹感が全く無く、何かを

食べたいと言う欲求が全くなかった。

それが不思議といえば不思議だった。

快晴の陽光の明るさは、昨夜の暗闇とは

大きく違い、そこには、恐怖心の温床は

見当たらない。まあ当然か。

当たり前ついでに言うなら、昨夜の恐怖に

似たものは、暗闇ではなにも見えない

視覚視野の認識問題だと知る。

つまり感覚は思考を生むと知る。だから

思考の観察は、感覚器官を静かにしなければ、

と知る。この当たり前な気づきは、僅かな

1日の断食が効果を奏したのだろうか?

 

同僚がくれた二本のフランスパンは、カビ

だらけ。割ってみたら中もカビだらけだ。

思いのほか湿気が多いということか。

昨夜の心の観察、思いのほか簡単だった。

ここへは、瞑想しに来たけれど、瞑想の

仕方が分からない。

瞑想を知らないのに、瞑想すれば、瞑想も

分かると言った奴は、どこの誰?出て来い。

という想念があったような気がする。

 

瞑想の真似ごと

そういえば、瞑想しに来たのだと気づく。

すると広い川の中ほどに大きな石があった。

あの石の上で、瞑想のポーズをとろうと思い、

パンツ一枚姿で、大きな石の上に胡坐をかいた。

五月の渓谷は肌寒かった。

いま座った。

それからどうすればいいのか?

何をどうすればいいか、分らない。

取りあえず、目を閉じて、静かに呼吸を

してみようと。

 

思考のメカニズム

一呼吸か、二呼吸したとき、僕はテントの

脇にいて、五メートルほど離れた石の上に

胡坐をかく僕を見ていた。テントの横に

いたのは、身体から分離した意識体だった。

そして、石の上で、瞑想をしている?僕の

肉体は、エーテル体と呼ぶことにして肉体の

従属的な道具の様であった。

その眉間から、シャボン玉のような透明な

小さな球体が、沢山吹き出していた。

その球の中には、それぞれ単独の想念が

入っていた。

それらは、寒い、暖かい風呂に入りたい、

熱い珈琲が飲みたい、子供の顔を見たい、

煙草も。酒とか、寿司とかも(笑)。。。

そうした諸々の想念群が肉体の眉間から

噴き出したようにも見えるが、その出所は、

肉体内にあるエーテル体の眉間からだった

と思う。

その球体は、瞬時に消え去るように見える

けれど、言語的な文法上に定められる主語、

述語、動詞、形容詞などに翻訳される。

いったい誰が翻訳しているんだろう?

そして、想念をどこへ、誰に向けて誰が

放出しているのか?この未知なる問いに

ついては、丹沢山中の現地では知ることが

出来なかった。これは、先生との対話集で

語ることにする。

石の上で瞑想する肉体、離れたテント側に

存在する自分と言う意識体、これらの分離を

見て、思考は、自分の魂のものではないと

知らなければならない。

肉体の中で、思考する者は、意識体と言った

魂の思考ではないと知ることにより、思考は

自分(魂)自身のもではないことが明らかに

なった。ゆえに思考の消滅が誰にも必須に

なっている。だが人の誰もがこれを知らない。

われ思うゆえに我ありは、プルシャに思考を

吹っ掛ける悪意的なエゴ・自我である。

そのエネルギー流れを見ると、考える実体は、

脳ではなく、テントの脇にいた意識体つまり

エーテル体ではないか?ここがまだ、はっきり

しなかった。エーテル体の思考エネルギーが

大脳へ振動を生じさせている。これを大脳が

考えると脳学者は言うようだが、脳学者達は

思い違いをしているのではないか?

 

過去世の想起

瞑想を知らないのに、瞑想すれば、瞑想も

分かると言ったやつは、どこの誰さ?出て

来いよと言ったことが功を奏したかどうか

知らないが、石の上に座し、数回の呼吸を

したとき、過去世を思い出した。小学生の

入学式のとき、幾多の過去世を思い出して

いたから、それの続編らしき過去世を思い

出しても不思議はない。

なるほど・・・

遠い過去において、あらゆる霊的修練を

やっていたのか。それを納めた。だから僕に

瞑想の修練は必要が無いと知る。

後に出会った先生いわく「あなたは、遠い

過去において、ありとあらゆる霊的修練を

いやと言うほど積み重ねて、それらを幾度も

クリアーした珍しい人です」とおっしゃった。

珍しい人?(笑)

山中の10日間で、瞑想もどきの体験は、

石の上に座った時間、つまり30分ほどであり、

その後は、山遊びだった。

だから、丹沢山中の断食瞑想は、皆さんの

参考にならないかも知れないと思ったわけ。

しかしながら悟りは、仏教学上の理論ではなく、

理屈ではなく、観念論でもなく、実体験により

体現されるものと知っていたようだ。

 

細胞の叫びを聞く

確か3日目だろうか。空腹感は無くて食事の

欲求は何もなく、珈琲が飲みたいと言う欲求も、

煙草を吸いたいという欲求も無くなっていた。

だから我慢するという禁欲は要らなかった。

だがしかし、全身の細胞が、何でもいいから

食べさせろ!とわめきだした。これに笑えた。

山に来る前は、食べないことを決意してきた

のだから、何か食べさせろ!という欲求には

同調しなかった。

それからしばらくすると、お願いです。何でも

いいので、何か食べさせてくださいと、涙声の

細胞群の想念に笑えた。それをも無視したので

細胞群は何も要求しなくなった。

なにも。。。

細胞群の叫びとは、実のところ「心」だった。

思考、考え、思うこと、心、想念は、同一の

ものと知る。つまり、それらは、プルシャ(魂)に

非ざるものと知る。

丹沢において、このような体験を経てもなお、

心の消滅という真理をハッキリ理解することが

無かった。だから真実の知識は重要だ。

 

超越的な力の開花

川の中ほどの石に座した彼は、肉眼を持って、

視野は360度に開き、遠方の景色も自由に見えた。

感覚器官は、超敏感になり、犬の動物の感覚を

超えたと知る。100m先の小鳥が羽ばたく音が

耳元でハッキリと聞こえた。次元を超えた霊的

世界も自由に見ることができる。

それが、この世とあの世との実相を知る真の知識

だと知る。

これ便利さ極まりなし

丹沢に来て、毎日が暇で、谷川を散策し、山の

探索をしたけれど、一日中の山歩きもまったく

疲労感が無い。空腹感もない。

急斜面の崖を昇る時、体重が消えていて、難なく

登れた。体重が消えたのか、重力が消えたのか、

それは知らない。長時間山を歩く時も、身体の

体重は意識化されない。疲労感も空腹感も無い。

これも便利、極まりなし

疲労しない身体になったので、眠らなくてよく

なった。休息もいらないし、眠らなくても心身の

疲労はまったく無い。

なぜ、食べなくて、強靭な身体なのか、

なぜ、眠らなくていいのか、

なぜ、体重を感じないのか、

なぜ、霊眼が開花したか?

そのような問いを持つと、それらの仕組みが

見えた。そのビジョンは、心身が消費したエネ

ルギー量と同等のエネルギーが外からやってきて、

瞬時に身体内部に配分される様を。あの当時は

体内において、いわば常温核融合されるのだと

言い現したが、それは間違っていないだろう。

だから彼は、皆さんは実のところ、素粒子の

支配者である。がしかし、人の誰もが、いまは

完全に素粒子に支配されている。それを誰も

信じないから、その主張はしない。

先に述べたとおり、先生は幼少期から何も食べず、

水さえも飲まないが、すこぶる健康体で在られる。

その肌はつやつやだ。

皆さん、これを信じられるのか?疑うのか?

そのどちらでもいいけれど、この体験に憧れを

持って、真似したら良いのでは?

なぜなら、皆さんもできる資質を持っている。

これを覚えたなら、病気や不幸はやってこない。

生命保険も掛けなくていいし、健康保険、年金も

描けなくて済む。

そして、これらを体現した者達が存在し、その

セミナーをやってきた事実がある。

 

断食瞑想6へ続く

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

YouTube広告(案)

🔸不食の秘密は、体内の常温核融合