あした

明日の出店は、1点物が幾つかあります。

遅く来た人は、売れてしまっているから、

何が1点ものか分からない。だから何も

問題ないね。

ど忘れ?
製品をビニールのケースに入れて、値段を

入れないといけない。イーグルの指輪にも

天然石を接着しないといけない。ペンダント

イーグルにも。

可愛いと思う那覇産のシェルには、天然

パールを接着しないといけない。今夜は

徹夜になるかも。あした時間になっても

行かない場合、まだ寝ているので「早く

来い!」と電話してくれないか?

とはいえ、加工所の社長さん、石留めの

職人さんが応援に来るそうなので、朝寝は

出来ないだろうねー

 

目のほかに、52個の天然石が入る顔イーグル。

ロジウムメッキとピンクゴールド

カフェのマスターから頂いたケーキ

 

人生考論

皆さんの人生観は、如何なるものか?

ここに、故人の人生観を紹介しよう。

 

心理学者フロイトは
「これまでに何度となく、人生の目的は何かという
問いが問われてきたが、まだ満足できる回答を示した
人はいない」
また、ユングとの対話において、心理学で人を治せる
訳が無いと言っていた。だが、飯の種として心理学を
捨てることはしなかった。

太宰治はこう言い残している。
「生まれて来てよかったと、ああ、命を、人間を、
世の中を、よろこんでみとうございます。(中略)
僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、
それが全然分からないのです」

ロシアの作家チェーホフは
「自分の生存の意義や目的を知ろうとしたって、
なにも教えられはしません」

夏目漱石は「私の個人主義」のなかで、
「私はこの世に生れた以上、何かしなければならん、
といって何をして好いか少しも見当が付かない。
私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独な人間の
ように立ちすくんでしまったのです」

天才的作家、芥川龍之介は、自殺直前の自伝小説で
長男の誕生について、「何のためにこいつも生まれて
来たのか?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」

人生論の著者、武者小路実篤は
「人間は何の目的で生まれたのか。また何か目的が
あって自然は人間を生まれるようにしたのか。
僕には分からない」

人気作家の五木寛之は
「人生に目的はあるのか。私は無いと思う。
何十年も考えつづけてきた末にそう思う
ようになった」

何かに熱中する幸せの状態である「フロー」を
提唱した心理学者のチクセントミハイは「我々に
「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」
などと教える者はどこかにいるというわけではない」

倫理哲学者のフィリッパ・フットは
『道徳的相対主義』)の中で「現存の哲学者であれ、
過去の哲学者であれ、命に価値があるというこの
観念を説明できた人を私は知らない」

20世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインも、
有名な『論理哲学論考』の最後に「たとえ可能な
科学の問いがすべて答えられたとしても生の問題は
依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう」

天才科学者のアインシュタインは、
「手段は完全になったというのに、肝心の目的が
よく分からなくなったというのが、この時代の
特徴と言えるでしょう」

稀代の天才科学者と言われたニコラ・テスラは
「いままでに、生まれた人は誰もいないのです」

現代の哲学者・トマス・ネーゲルは
「人生は単に無意味であるだけではなく、不条理で
あるかも知れないのです」

日浦の言い分
事実は、誰も生まれてはいない。
だから人生と言う夢から目覚めたら、質(たち)の
悪い夢だったと知る。深い眠りに落ちた者たちは、
人生に意義があるなどと言いながら、苦しみ嘆き
悲しむ。

 

即売会近し

11日の即売会に向けて、沢山のアクセ

サリーを制作中。総額の予想売上額が

いくらになるか、まだ計算していない。

それらの物量を見て、『売れ残ったら

どうする?』という想念は、すぐさま

やってきて、さーっと通り過ぎていき

ました。

売れ残ったら、来月に回せばいい。

 

交渉術の応用
過日は、某読者さんから、「わたしにも

ブルトパのペンダントを作ってください」と

メールがきたので、天然石の問屋さんへ

行くと、なんと社長の方からブルトパの

押し売りを仕掛けてきた。これ☟

値切るのは、ある意味で失礼にもなるから、

先ずは「高いねー!」と大きな声を

出して、それを客に聞かれたら困る立場の

社長の顔を伺いながら、値切りではなくて、

交渉することにした。四角形の石でなく、

ダイヤ形状がいいとか言いながら。

交渉の結果、上記26万円は8万円で買えた。

価格設定とは、いい加減なものだと思う。

 

テレビ取材
数ヵ月前、某テレビ局のディレクターと知り

合いになった。名刺をもらっていたので、

即売会を取材してもらおうかという想念が

やって来た。もしに取材に来て、放映した

ならば、、、、

それによって、忙しくなるのは、誰か?と

いうことから、電話しなかったのは正解だ

と思う。

委託販売
業者さんのホームページを増やしてもらい、

そのページを広告する。業者さんに注文が

来たら、キャスト工程から、ロウ付け、石留、

磨き、メッキ等の全工程を任せて、お客への

発送も引き受けてもらう。そんな信頼できる

業者さんを見つけるのは、時間がかかるけど、

僕は楽になれる。

もっと早くに気づけばなあと、、、、

カルマかいな?
すべての物事から自由になっても年に

数個のアートなアクセサリー作りは、

止めないだろう。なぜなら、趣味の

モノづくり、面白いから。

義務的な仕事にすると、創作意欲と

自由な楽しさは消えるもの。

断食体験

る受講生さん、山へ10日間の断食に

行って来たと言うメールをもらった。

しかしながら、たかが断食したくらいで、

それを褒めてあげることでもなし。

 

そういえば、学生時代、京都の橋の下で、

河原乞食を体験した際、空腹感や飢えを

まったく経験してはいない。その記憶が

飛んでいるのか、それとも、不食体質に

なっていたかどうか。河原乞食の体験に

より、不食体になった可能性はある。

素晴らしいホームレスもいる

新宿にも路上生活者が散見されるけれど、

彼らの中には、不食体になったホームレス

達も少なからず見受けする。そんな彼らの

生き方を見るとき、みじめな思いをしては

いないと知る。家庭、仕事、友人関係など

絶たれれば、それらの束縛から解放される

わけだから、おのずと世捨て人。そういう

境遇になると、生き方の革命が生じること

になる。彼らの約半数は、この世の不条理を

裏側から見て、欲に生きる人の世相を見る。

そんな世俗を放棄して、生存欲求のエゴを

超える。それが悟りの境地に近づく。

そんなホームレスたちを何人も見てきた。

そして彼らの約半数は、人知れず、肉体を

放棄する秘密の場所を見出して、帰天して

いるのだ。ある意味、そんなホームレスを

人生の敗北者だと言うなかれ。みじめな

乞食だなどと言うなかれ。

見た目の姿は、乞食であっても、世俗の

欲望を超越する彼らは偉大な魂と言える。

募集

各地のラーラ募集中
いま世界は、あらゆる国々の様々な分野に
おいて、核ミサイルが飛び交う第三次世界
大戦の兆候あれど、どこにも平和の希望が
見いだせない現状です。

この現実的な地上の地獄から解放され道が
あることを広めてゆくため、各地ラーラの
セミナー開催地が増えるよう自主セミナー
開催者を広く募集します。ダンク記事の
「最後の晩餐会に参加しました」の通り。

ラーラセミナーを受講してみて自分も自主
セミナーをやりたいと思ったら、その旨を
参加したラーラに伝えてください。
ダンクの所には、膨大な過去のテキスト
データーがあり、それも開示されます。

今後の受講料は、減額になります。
また、ラーラセミナーの開催者からは、
加盟料のようなお金を取りません。
ノルマも無い。護符も買い取りではなく、
売れた場合、日浦に原価を支払うだけ。

ただし希望すれば、誰も自主セミナーが
できる訳ではなく、面接があります。
自主セミナーが決まれば、書籍出版の道も
開かれます。

参加のメリット
セミナー参加者のメリットは、真理の理解が
深まり、あなたの行くべき唯一の正しい道を
教えてくれる。それへの確信と到達。経済的
側面は、記事「真のヒーリング」にある通り。

怒涛の如くに
興味ある人が怒涛の如くやってくるように
ブログアクセス数を日10,000万以上に増やす
方策を検討中。日浦サイトでは、日に8,000
アクセスあったので、それは可能です。

膨大な読者が来ても混乱しないシステムを
構築可能。各地のラーラセミナーをやろうと
言う人は、記事さえも書かなくてオーケー
牧場になります。

☝なんと画期的なシステムだろう。

新しいホームページは、英語対応版とし、
アメリカへ投げ込む。そこから日本へ
逆輸入されるという古いスタイルを。

ホームページ二回目は、映画のCGを用いた
動画は文言が少なく、見る者を引きつける。
制作1,000万円以上かかる様子。
治癒の神器を売って、儲けたお金はすべて
真理普及の広告費に充当されるもの。

ピラミッドの謎

ほんの少し加筆あり

今日は、天気がいいので、久々にカフェの

モーニングを食べて来た。

カフェ帰りの気づき。手入れされた並木の

新緑が美しい。そして、公園の木々も緑が

きれいな季節になった。

この連休は、アクセサリーを作るため3人の

職人さん達は連休無しだという。何かお礼を

しないと。

 

現代科学も未だ分からないことが沢山あると

いうピラミッド。建造は宇宙人によるものだ

と言う人もいるらしい。しかし、宇宙人だと

言う人の概念から見れば、地球人も宇宙人で

あると気づけないのだろう。

 

エドガーケーシー理論

むかしエドガーケーシーのリーディング

では、巫女がナイル川の水面に立って、

歌を謳うと、ピラミッドの石が宙に浮いて

それが組積されたと言う。予言の約半分が

外れたけれど、エドガーケーシーがいう

歌というのは、ある種の振動をいい、物体

とか空気を振動させない振動のことだ。

(注)宇宙を動かすというモーター音がある

として、これをオーム(AUM)と呼んだ古代

ヒンズー教の伝承があるように、物質と音を

振動させない振動がある。この振動に関する

ヒントは、このブログにも示唆してある。

ナイルの川面に立った巫女は、重力の影響を

受けていない訳だし、歌った謳は音響の無い

歌と言える。(AUMではない。)このことは

後述しておきます。

イエスキリストも海の水面を歩いたという

伝承がある。この話が本当ならナイル川の

川面に立った巫女の話しもうなずける。

すると巫女は曲の無い某振動を司ったかも

知れない。このように言うと物理を学んだ

人達は、フェイクだと言うかもしれない。

しかし、ラージャヨーガに説明されている

人の空中浮上と、その飛行がそれの一つ。

仏教用語の中にも飛行(ひぎょう)という

言葉があり、仏道を修めた解脱者ならば、

飛行したという伝承があることになる。

古代中国には、多くの仙人が登場する。

その仙人は、霞を食べていたと言われて

いるが、日浦は霞の正体を示している。

久米野仙人は、伝説か実在か。どちらも

ありである。

もし、これができるなら、重さや質量は

関係がなくなるので、ピラミッドの巨石

でさえ軽々と空中に浮くだろう。

この理論を更に飛躍させるならば、巨大な

質量を持つ宇宙船でさえ、重力の影響から

外れることが可能になるというもの。すると

推進力もごく僅かでいいだろうし、或いは、

推進力は必要の無いものかも知れない。

 

地球や太陽が巨大な質量を持ちながらも、

大気中に浮いているではないか。これを

理屈づけるため科学は様々なことを言う。

だから現代科学は、まだ重力も理解して

いないと言えるのではないか。

そういうと学者頭の人の湯気は、さらに

増幅するかも。

 

ピラミッド建設に関し、先生の可視化した

答えは、「最終的に石の浮力を消した」と

いうもの。誰が石の重力を消したのか?と

言うならば、宇宙人などではなく、地球人

であったという話し。但し頭長人類の。

彼らの大脳は普通の人間のものではなく、

脳が前後に三つあり、それを連結する複雑

怪奇な配線のような回路がある。二元性を

生み出す右脳と左脳は、その構造的に持って

いない。だから彼らは、葛藤も矛盾もない。

この頭長人類は、当然ながら普通の科学者

とは思考法が大きく異なっている。と言うか

彼らは思考を超越している。それが思考の

彼方の意味。

 

現代では、研磨剤を含む超高圧水によって、

鉄や石を切断しているけれど、ピラミッドの

石の切断は、空気だと先生は言われた。

しかも石の切断面は、鏡面研磨であったと。

それも機械的装置を使っていないのだと。

日浦の護符の原理

この論理的説明の根拠は、仮説と言っても

良いけれど、空気中には、水よりも多くの

金属を含有していることを現代科学は認めて

いる。太陽光線の中には、金もあると言う。

このことについて、音の無い振動と時間と

空間を圧縮することが出来た古代の頭長

人類の超思考法を介入させると、空気中に

含まれるダイヤモンドの硬度に似た金属を

大気中から集めて、巨石が鏡面研磨状態に

切断されたと言えるのではないか。

その理由は、空気中に含まれるある種の

エネルギーを体内に取り込むと、完全な

不食体になり、病気も治ることを日浦は、

丹沢山中の超越体験によって知っている。

これに加えて、人体も石も素材は、ほぼ

同じであるから、ピラミッドの石中にも

不可知なエネルギーを入れることが出来る。

日浦流に言えば、ピラミッドを護符化する

ことが出来る。それはまた、石の変性を

もたらし、かつ加工がとても容易になる。

日浦の護符は、紙であれ、金属であれ、

そのような原理によってつくられている。

これらは、凄い先端科学だと思う。

ダンク風に評するなら、ぶっ飛んだ話し。

 

恐らく、ロシアの永久凍土土中深くから、

干しブドウのような頭長人類の乾燥脳が

発見されるかも知れない。しかしながら、

もし発見されたとしても、決して公開は

されないだろう。

 

ある日のセミナーで、「頭のいい人たちが

そこへ入ってくることを否定しません」と

意味深な言葉を語られた先生。そことは

唯一実在の世界の事です。無でありながら

すべてがある創造の源の世界。

先生はまた、普通の大脳ではないと別の

言葉をもって、おっしゃられたが、それは

思考を使わないで生きて来たという意味で

あるけれど、先生は、決して頭長の頭蓋骨

ではないことを皆さんも見て来た。

 

思考、知識、学問は、この世の必要価値で

ありながら、しかしながら、人が唯一へ

入るための障害なのです。

J、クリシュナムルティーは、3人の霊的な

存在から脳の手術を受けたと自書に書いて

いる。痛いからやめろと言っても聞き入れて

くれなかったとも書いてある。しかし手術の

後には、思考を消し去って真我に到達した。

だから心といい、思考といい、学問といい、

それらは、本当に大切なものではなく、魂を

欺く単なる身体機能だと認識しよう。

心、思考を消し去れという教えは、現代の

知識人にとっては、かなり受け入れ難いに

違いない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

YouTube広告(案)

ピラミッド建設では、石の重力を消した。

茶会にて

最後の晩餐が終えて、カフェに行った。

色んな雑談をする中で、ポーさんから

スマホ情報のナイトクラブ・ベラミを

知らされた。あのベラミは、いまでも

名前が残っているのかと驚いた。

想いでのベラミ
ベラミはかつて、京都市東山区三条川端
東の京阪三条駅前の三条大橋のほとりに
あったナイトクラブ、サパークラブである。
ベラミは「夜の商工会議所」と呼ばれるほど、
京都の名士が多く集うナイトクラブであった。
「関西オールスターズ」「ベラミ・オールス
ターズ」などのハウスバンドによる生演奏も
あり、たいへん華やかな雰囲気であったと
言われている。
当時の超一流の有名歌手達が頻繁に公演を
行ったため、ベラミで公演を行った歌手は
「一流」とみなされ、歌手のステータスと
なった。
1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄が
銃撃されたことでも知られる。
1985年、ママである山本千代子の死によって、
営業を終えた。ウィキペディア

 

学生乞食
学生時代、両親の再起不能と言う大きな交通

事故により、仕送りが途絶えたので、下宿を

出て、京都の橋の下で、河原乞食を体験した。

その一か月後くらいか、或いは数か月後かは

覚えてはいないが、「アルバイト求む。高級

優遇!寮あり。食事つき」という大きな看板を

見て「これで僕は救われる」と勝手に思い込み、

なんと、きったない乞食姿のまま、一流どころの

ベラミに面接しに行った体験がある。その行為を

くそ度胸があると言うか、馬鹿者と言われるかは

知らないが。

呼び鈴を押すと、蝶ネクタイをした恰幅いい

マネージャーらしき人物が出てきて「なんだ、

乞食か。乞食が何の用だ?」と言われたことを

想い出した。

1968年ころ、結局は、ベラミに採用されて、

とんとん拍子の出世街道を歩んだこと。

そしてついに、ママの山本千代子は、日浦に

店の営業権と建物を贈呈するとまで言った。

というか、是非とも受け取って欲しいと懇願

されたのだ。地下二階、地上7階建ての大きな

ビルを。あの当時のベラミには、常時300人の

ホステスがいて、日の売り上げ金額は、莫大な

ものだと聞いた。その店をくれるという滅多に

ないチャンスを断って、ベラミを辞めた過去が

ある。

1978年7月11日は、山口組組長の田岡一雄が

銃撃されたとあるが、その年は日浦が田舎へ

戻った時だ。

1985年、ママの死によって、ベラミの営業を

終えたとある。ママは、日浦以外に、店を譲渡

する人物を見出せなかったのか?

永い間、苦労したんだね。

このベラミでの体験をまた記事にするかも

知れない。

夕食時の話し

この時も治癒の神器に関する話になった。

真我に生きる「ラーラ北海道」 (jugem.jp)

しかしながら、この記事の言いたいことは、

治癒の神器についてではなく、知識と思考の

在りようについて説明したい。

むかし読んだ「逆転の発想」という本は、

日本初のロケットを開発した糸川博士の書籍で

あったが、その内容は、僕と同じ発想の人が

いるんだなと感動し、励まされたことがある。

彼の言葉、「新しい発明の前には、専門家は

存在しない」である。だから、新しい発明を

なんだかんだと難癖付ける人は、わたしは

古い知識だと自己申告しているようなもの。

ダンク家との食事会の場では、僕の説明に対し、

「大学で学んだことと違いますね?」という

意見もあったような。誰とは言わないが(笑)

過去の柳式が幾多の学者さんから理解されず、

むしろ否定的に捉えられた体験がある。

日本雪氷学会の論文発表会でもそうであって、

君は、文系の出身か?などと言われもした。

それは、文系の人に対する侮辱発言!(笑)

その会場でも例えた言葉は、糸川博士の

「新しい発明の前には、専門家は存在

しない」であった。この言葉により?

会場は、静まり返ったものだ。

 

ダンクの記事より
>自然界に生成する竜巻の原理を応用し
>渦を作る原理、音楽を光りの周波数?に
>変える原理、等々というお話は、本当に
>申し訳ないのですが、イメージすら出来
>ませんでした。(*_*) 

このように申し訳ないと言う必要はない。

ただ単に「分かりましぇーん」と言えば

オーケー牧場なのさ。下記はその理由。

 

さて、知識と思考の本題に入ろう。

人は誰もが先入観を持っている、という

ことを誰もが知っている。知っていながら

先入観とか、既成概念、記憶の印象から

抜け出せる人は、いないのではないか?

「大学で学んだことと違いますね^^」と

いう言葉は、それを現わしている。

このことを非難する訳でなないが、知識と

思考の限界を見極めておかないと、思考は

過去の記憶に支配される。だから過去は、

新しいものを容認しない。そういう性質の

思考は、真理を容認しない。理解さえも

しない。

仮想の読者「ならば無想の境地で聞けと?

それは自ら洗脳を受け入れる愚行では?」

などと思うのは、誰だろう?

もし、無想の境地で、見る、聞く、語るが

出来るなら、彼は思考から解放された人と

言い得るのではないか。或いは、思考の

彼方に行った人。つまり解脱した人。

なぜなら魂は、思考しない、推理さえも

しない、記憶さえ必要としない超越的な

知覚の主体、知性体なのだ。

この意味をただちに理解しよう。

過去は、思考は、真理をブロックする。

真理は、自己である。