自我の自殺1

先に紹介したトヨタの水素エンジン開発など、

近年の科学技術は、目まぐるしく進歩した。

これからもテクノロジーは、大きく進展する

事だろう。地球が存続し、人がいる限り、

科学技術の進展は起こりえる。

一方で、地球が存続し、人がいる限りは、

戦争が絶えることなく勃発しており、

それゆえ人民の命を尊ぶという人間の理性的

意識は、少しも進歩してはいないと言える

のではないか。

可視化される障害として、枠珍味なちくわを

食え、コウロギ粉末の入った食品を食え、

幼児にも有害であろう枠珍味を強要するなど、

それでいて国家は責任を負わない。なぜなら、

それらを国家が推進しているからだ。こうした

狂気のエントロピーは、日々増大している。

こんな狂気の世界に生きる意味や意義は、

本当にあるのか?と自問する人は、いる

のだろうか?

こうした現実に目を向けるならば、表題の

自殺の勧めという言葉は、極めて不謹慎な

表現だろうか。

もしも、この自殺の勧めを非難する人が

いるなら、大勢いるだろうが、これへの

批判は、この説明を最後まで読んでからに

して欲しい。

現実社会にある多くの人は、実のところ

密かな自殺願望も抱えているのではない

だろうか?諸々の事情があって、自殺を

決行する意思がないというのが現代人の

大半ではないだろうか?

生きることの意義が見えない。何かと不幸の

絶えない人生、連続的な苦脳の人生、生が

辛すぎたり、得体の知れない恐怖にさいなま

されたり、希望が見えなくなると、或いは、

重い病に伏せながらも不幸が重なるとき、

心の中に、死の誘惑が忍び寄る。