ある日の渋谷の某ファミレスにおいて、
先生は真理を説かれたわけじゃあない。
日浦さん、あなたが真理そのものだから
わたしが真理を説く必要はありませんと。
先生は、日浦が押し隠していることを
認めよと迫ったのです。
「あなたは、そうやって、ご自分を誤魔化
して生きてこられたんですね」と。
このような叱責ではなく、指摘をされたのは、
3回ほどありました。
告知と言えば、答えを教えてくれるのでなく、
例えるなら、ファミレスのテーブルの上には、
僕の頭よりも大きなスカイ玉があり、切る
包丁がなく、そのまま、それを飲み込めと
言葉なく迫るようなもの。頭よりも大きな
スカイは、口が裂けても飲み込むことは
できない。それは、禅問答にも似ていた。
遥かなる太古の時代、眼下に雲海がたなびく
山頂に彼はいて、40代、50代の聖者や神仙と
呼ばれる悟りを得た者たちを集めて、更なる
真理を説いていたのは、16歳の少年でした。
少年は、雲海の彼方を指さして、「見よ」と
聖者たちに告げていた。その100m前方には、
雲海から太い光の柱が立ち現れ、ゆっくりと
旋回する。次第に旋回のスピードは、速くなり
オレンジ色に輝きながら、旋回は止まった。
その光の柱は、巨大な竜の姿をとった。
聖者たちは、見たこともない生き物を見て、
「あれは、何でしょうか!??」と驚きを
露わにした。
こうした過去世を思い出してはいたけれど、
まさか、この僕が、神仙を弟子に持つ強大な
エネルギー体だとは、認めたくなかった。
このことを引き合いに出した先生は、
「日浦さん、あなたはどうしてご自分の本性を
知っていながら、認めないのでしょうか?」と
問い詰められた。
その指摘は、正確なものであり、それゆえ
押し隠したのは、謙虚さを偽装したエゴで
あったと知ることができたということ。
ある時、「あなたは、真に人を導くことが
できる稀有な人です。」と言われたので、
「人を導く人は、世の中には、たくさん
いるでしょう」と逃げ口上を言うと、先生は
烈火の如く「いません!」と押し返された。
人を導くという意味を自覚していない自分を
知ることができた。
このように心は、思考は、破壊されないと
自己は現れないという認識を新たにしたのは、
先生の指導のたまものです。
心の破壊とは、前述したように、単なる
記憶とその反応に過ぎず、魂に非ざるもの
という正しい認識が生まれるのは、心を
破壊することによって、認知されるもの。
だから皆さんは、なりすまし野郎の心を
破壊することを霊的修練の柱としよう。
この心の破壊なくして、いかなる霊的修練も
正しい成果を生まない。
巷に示された霊的修練は、すべからく思考の
産物であり、それらの励行は、思考の破壊に
至らない。思考が饒舌になるだけ。
心は、存在性がないもの。単なる記憶の集積
だと知れば、心の破壊は、何のリスクもないと
知ることができる。
記憶からなる心は、大事なものではなくて、
破壊すべきもの。これが分かれば、心の破壊は
隠された至高のプルシャを出現させる唯一の
道なのです。
心の破壊、心の消滅を拒絶するものは、あなたの
なりすましであるエゴです。あなたは、エゴと
二人三脚をしていながら、エゴが自分だと勘違い
して、人生を終えているのです。
自我である私は、エゴであり、それは、あなたを
幸福に導くものではないです。
魂それ自体が変わることの無い幸福なのです。