茶会にて

最後の晩餐が終えて、カフェに行った。

色んな雑談をする中で、ポーさんから

スマホ情報のナイトクラブ・ベラミを

知らされた。あのベラミは、いまでも

名前が残っているのかと驚いた。

想いでのベラミ
ベラミはかつて、京都市東山区三条川端
東の京阪三条駅前の三条大橋のほとりに
あったナイトクラブ、サパークラブである。
ベラミは「夜の商工会議所」と呼ばれるほど、
京都の名士が多く集うナイトクラブであった。
「関西オールスターズ」「ベラミ・オールス
ターズ」などのハウスバンドによる生演奏も
あり、たいへん華やかな雰囲気であったと
言われている。
当時の超一流の有名歌手達が頻繁に公演を
行ったため、ベラミで公演を行った歌手は
「一流」とみなされ、歌手のステータスと
なった。
1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄が
銃撃されたことでも知られる。
1985年、ママである山本千代子の死によって、
営業を終えた。ウィキペディア

 

学生乞食
学生時代、両親の再起不能と言う大きな交通

事故により、仕送りが途絶えたので、下宿を

出て、京都の橋の下で、河原乞食を体験した。

その一か月後くらいか、或いは数か月後かは

覚えてはいないが、「アルバイト求む。高級

優遇!寮あり。食事つき」という大きな看板を

見て「これで僕は救われる」と勝手に思い込み、

なんと、きったない乞食姿のまま、一流どころの

ベラミに面接しに行った体験がある。その行為を

くそ度胸があると言うか、馬鹿者と言われるかは

知らないが。

呼び鈴を押すと、蝶ネクタイをした恰幅いい

マネージャーらしき人物が出てきて「なんだ、

乞食か。乞食が何の用だ?」と言われたことを

想い出した。

1968年ころ、結局は、ベラミに採用されて、

とんとん拍子の出世街道を歩んだこと。

そしてついに、ママの山本千代子は、日浦に

店の営業権と建物を贈呈するとまで言った。

というか、是非とも受け取って欲しいと懇願

されたのだ。地下二階、地上7階建ての大きな

ビルを。あの当時のベラミには、常時300人の

ホステスがいて、日の売り上げ金額は、莫大な

ものだと聞いた。その店をくれるという滅多に

ないチャンスを断って、ベラミを辞めた過去が

ある。

1978年7月11日は、山口組組長の田岡一雄が

銃撃されたとあるが、その年は日浦が田舎へ

戻った時だ。

1985年、ママの死によって、ベラミの営業を

終えたとある。ママは、日浦以外に、店を譲渡

する人物を見出せなかったのか?

永い間、苦労したんだね。

このベラミでの体験をまた記事にするかも

知れない。

夕食時の話し

この時も治癒の神器に関する話になった。

真我に生きる「ラーラ北海道」 (jugem.jp)

しかしながら、この記事の言いたいことは、

治癒の神器についてではなく、知識と思考の

在りようについて説明したい。

むかし読んだ「逆転の発想」という本は、

日本初のロケットを開発した糸川博士の書籍で

あったが、その内容は、僕と同じ発想の人が

いるんだなと感動し、励まされたことがある。

彼の言葉、「新しい発明の前には、専門家は

存在しない」である。だから、新しい発明を

なんだかんだと難癖付ける人は、わたしは

古い知識だと自己申告しているようなもの。

ダンク家との食事会の場では、僕の説明に対し、

「大学で学んだことと違いますね?」という

意見もあったような。誰とは言わないが(笑)

過去の柳式が幾多の学者さんから理解されず、

むしろ否定的に捉えられた体験がある。

日本雪氷学会の論文発表会でもそうであって、

君は、文系の出身か?などと言われもした。

それは、文系の人に対する侮辱発言!(笑)

その会場でも例えた言葉は、糸川博士の

「新しい発明の前には、専門家は存在

しない」であった。この言葉により?

会場は、静まり返ったものだ。

 

ダンクの記事より
>自然界に生成する竜巻の原理を応用し
>渦を作る原理、音楽を光りの周波数?に
>変える原理、等々というお話は、本当に
>申し訳ないのですが、イメージすら出来
>ませんでした。(*_*) 

このように申し訳ないと言う必要はない。

ただ単に「分かりましぇーん」と言えば

オーケー牧場なのさ。下記はその理由。

 

さて、知識と思考の本題に入ろう。

人は誰もが先入観を持っている、という

ことを誰もが知っている。知っていながら

先入観とか、既成概念、記憶の印象から

抜け出せる人は、いないのではないか?

「大学で学んだことと違いますね^^」と

いう言葉は、それを現わしている。

このことを非難する訳でなないが、知識と

思考の限界を見極めておかないと、思考は

過去の記憶に支配される。だから過去は、

新しいものを容認しない。そういう性質の

思考は、真理を容認しない。理解さえも

しない。

仮想の読者「ならば無想の境地で聞けと?

それは自ら洗脳を受け入れる愚行では?」

などと思うのは、誰だろう?

もし、無想の境地で、見る、聞く、語るが

出来るなら、彼は思考から解放された人と

言い得るのではないか。或いは、思考の

彼方に行った人。つまり解脱した人。

なぜなら魂は、思考しない、推理さえも

しない、記憶さえ必要としない超越的な

知覚の主体、知性体なのだ。

この意味をただちに理解しよう。

過去は、思考は、真理をブロックする。

真理は、自己である。