人間解体論-8

このブログでは、ことあるごとに、

「皆さん瞑想しなさい」と繰り返し

言わない。そのことに気づいている

だろうか?

 

なぜ、瞑想をやれといわないのか?

 

それは瞑想によっては、人間解体論に

行きつくことは期待できないから。

何故なら、絶え間なく異なる思考が

やって来るから、思考自体に変化が

生まれる。思考それ自体は、あなたを

連れてゆく先を知らない。もし思考の

いい加減さに気付くことが出来るなら

誰でも時々は、それに気付くけれど、

気を取り直して再思考をする。

皆さんは、思考を重要視しないことが

できるだろうか?

 

皆さんが無意識的にやっていることは

意識して、その思考を使っている、と

いう能動的な感覚によるけれど、それが

受動的な思考なのだ。これこそが思考の

支配であると人は知らない。

 

彼は知性がある、理性的であると人は

いうけれど、その思考を知性とか理性

だというかも知れないけれど、やはり

変化する思考に過ぎない。

ビヴェーカナンダさんは、人を支配

するカルマは、瞑想によっては破壊

できないのだと本に記している。

彼は、頭が良かったので何ごとも

理詰めに語る傾向が強い。

カルマのことは時間があれば、別の

視点から説明するかも知れない。

 

皆さんが知るべきは、思考に依る

自己探求とか、自分探し、或いは

哲学や宗教においても永遠の自己を

知ることは出来ないということだ。

なぜなら、永遠の自己と言う概念、

その真実の知識が無いからである。

この知識無くして、如何なる瞑想も

無意味であり、自分探しも深い迷いの

森に入る危険があり、宗教も哲学も

思考の延長線を辿るだけである。

その結果、「わたしは悟った」という

偽りの観念を生み出すだけであり、

観念を自己だと勘違いする仏教徒や

宗教者に視られる奇異な傾向である。

観念も思考に過ぎないと看破する人は

極めて稀だ。

公言すると問題が生じるので、口には

出さないが「わたしは悟っている」と

嘯く人は、驚くほど沢山いる。そんな

彼らは、あらゆる業種の中にいる。

そうした彼らは、謙虚さの代わりに

傲慢さを内に抱いている。

 

では、瞑想は重要ではないとすれば、

しなくていいものか?

この記事をちゃんと読んだ人は、

上記のような問いは持ちません。

なぜなら

>この知識無くして、如何なる瞑想も

>無意味であり、と書いてあるから。

 

続く