人間解体論-7

人に知られざる本性あり

先生との出会いがあって間もなく、

「僕は、誰かの霊的系統に属して

いますか?」そのようにお聞きした。

霊的系統とは、人間の世界でいう

家系・その家系図のようなものだ。

その問いに対し、先生は珍しく沈黙

したままであった。

先生は無言のままで、着物の袖を

まくり、テーブルに膝をおいて、

手の平であごを支えた。そして

両足をソファーに伸ばし、両足の

踵を隣の隣りにあるテーブル上に

置いた。そのような奇異なポーズを

見て、「?ここは、人が大勢居る

ファミレスだというのに、なんと

いうポーズをとるのか?」と想った。

だがすぐさま、先生の無言のポーズは、

ゴーダマ仏陀(お釈迦様)の涅槃像を

示されたのだと知る。すると先生は、

姿勢を元に戻しながら、

「白くて 大きい」という意味深な

言葉を呟いていた。また「あなたは、

ゴーダマ仏陀のサブを務めた方です」

と言われ、加えて、「真に人を導く

ことの出来る人です。」そのように

語られ、続けて、「およそ2.500年前の

インドに生まれた仏陀のサブであるか、

天界における仏陀の教団のサブであるか、

そのどちらであったのかは、ご自分が

想い出すでしょう」と言われた。

そのようにお聞きしてすぐさま

「自分は、2.500年前に生まれた仏陀の

弟子と伝えられるアーナンダでは無い」

と知った。

<中略>

その日は、うだるような暑い夏の日で

あったが、僕を渋谷駅まで送ると言う

先生。駅について、今日はありがとう。

またねと挨拶をして改札を抜けようと

したその時、先生は叫ぶかのごとく、

「あなたの語る言葉は、仏陀の言葉で

あり、仏陀の言葉、想いは、あなたの

言葉、想いですからね!」そのように

言われた。

ファミレスの会話の中では語り足り

ない感じがしたのは、このことを告知

されるためだったのかと知る。

帰りの電車の中では、先生の言葉を

反芻し、「白くて 大きい」の意味を

知り、こみ上げる記憶の波に涙腺が

ゆるむ。

 

もし、先生の告知が無ければ、仏陀の

サブを務めたと言う自分自身の過去を

知らないままだ。

ここで皆さんに言いたいことは、人は

誰もが膨大な転生輪廻の記憶を持って

いながら、その転生の履歴を知らない

ままだと言うこと。

では、転生の全履歴、過去世の記憶を

想い出すことが誰にも重要なのか?と

問われるならば、そうではない。輪廻

転生を超えて存在する永遠の自己を

見出すことが重要なのだと言いたい。

無限的に転生輪廻していながら転生を

しない永遠の自己がある、という深い

教えは人の誰もが知るべきことであり

ながら、人の体を持つと、その本性が

完全に隠される。

人類の歴史を俯瞰すると、人の誰もが

自己の本性が完全に封殺されたまま、

身体感覚の「わたし」が各々の人生を

織りなしている。つまり完全なる記憶

喪失状態に生きるのが「わたしは」と

主張する人間の姿である。

言い換えれば、私は人間だと主張する

こと自体が大きな大きなウソであると

言うことである。一体、これらを誰が

理解し得ようか?

人の争いとか、世界の覇権、苦しみと

悲しみ、生きようとする生への衝動など、

これらは永遠の自己から視るならば、

幻想だと言える。なぜなら永遠なる

自己は、この世に生まれてはいない

のだから。このことを知る人が居る

のだろうか?

あなたは、いったい何者なのか?

しかしながら、「わたしは誰か?」と、

問う人は少ない。その問いは、ここに

述べたところの人間解体論を持って、

その秘密が知られる可能性がある。

 

言うまでもないが、「幸福の科学」の

大川隆法が、本物の仏陀である訳が

なく、その大川隆法に影響を与えた

高橋信次もまた仏陀では有り得ない。

 

 

そしてまた、今日にまで引き継がれる

諸派の仏教学は、最初の偽書である

パーリ(仏典)の延長線上にある創作

書であり、仏陀の教えではありません。

例えば、仏典の中に、アートマンなる

物は存在しないと教えるのは、アンチ

仏陀になったヒンズー教徒等が書いた

偽書です。インターネットの無い時代、

インド全域にその名を轟かせたゴーダマ

仏陀。彼の崇拝者も増える一方、妬む

者と誹謗する者、誤解する者、教えを

模倣する者達も沢山現れるのが、この

世の仕組みだから。

こうした史実の真相は、人の知性では

決して分からないものです。何故なら

人間とは、永遠の自己を封殺する偽り

であるからであり、歴史は隠されるのが

常だからです。宇宙の歴史をその真実を

知るのは、時間と空間の影響を受けない

永遠の自己だけです。

このことを誰が知ると言うのだろう。