アニミズム

アニミズム(英語: animism)は、生物・無機物を問わない
総てのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方。
19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書の
『原始文化』(1871年)の中で使用し、定着させたとある。
日本語では、「汎霊説」「精霊信仰」「地霊信仰」「自然信仰」
などとも訳される。この語は、ラテン語のアニマ(anima)に
由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。(Wikipedia)

文化人類学って何さ?
このアニミズムをネット検索したら、◯◯大学の文化人類学の
宗教研究と題して、アニミズムの意味論が語られていたので、
それをさらりと読んで見た。その読後感はと言えば、え~?と
驚くほどの低レベルなものであって、単なる人の思考の働きが、
思考に依る考察や空想が文化人類学と呼ばれる学問なのか!?
という様な虚無感しか残らないものだった。大学は、いったい
何を教えるところなのか?本当に学ぶべきは、何なのか?

カントは、頭が良かったのか?
別のサイトでは、それに関連する論文であるとしてカントの
純粋理性批判も語られていた。今では懐かしい題材である。
カントは、理性を悟性だとし、それを心、神だと捉えていた
ような文脈を残してある。当時の彼は、頭がいいほうだった
のかも知れないが、とにかく理屈っぽい。読み進めると頭が
痛くなる。頭痛がするようなへ理屈を言うのはマインドだ。
そのマインドが心と神とを同列に語ることそれ自体、何をか
いわんやである。カントが言う悟性という理性という言葉は、
所詮は思考の範疇にある思考だと気付かなかったのだろうか?

このブログの読者なら、マインド、思考の産物である哲学や
心理学、宗教は、価値あるものではないと分かっただろう。
カント哲学に限らず、すべての哲学は思考の働きであるから、
思考の理性の彼方にある実在の真理に到達することは出来ない。
それにもかかわらず、思考によって、神やあの世を語る宗教は、
唯一実在の真実性に欠けるものである。

卒論のテーマに「カント」「ユング」などを論考する人が今も
多くいる。それでも卒業できるのが大学(笑)工学部の卒論は、
そうはいかない。しかし、古代の他者の想念を卒論のテーマに
するなんて、なんてことだろう!
哲学も心理学も所詮は、人の思考の産物だ。それは、まぼろし。
大学は何を教えるところなのか?
皆さん、このことを知っておきたまえ。人が唯一実在に到達
するためには、思考と感覚とを離れなければならないのだ。
それは、全記憶を含むこの世において学んだ知識の総てを
離れることを意味しており、大学を出たことは、何の価値も
無かったのだと自己を知ったとき、明晰に知るのである。
だから、高学歴が無いと言う人は、なにも嘆く必要はない。

科学も宗教もアニミズム
むかしの人たちが科学に無知ゆえか、天空から放たれる大きな
稲妻の光りを観て、それも自然霊の仕業だとか、神の働きだと
思えばこそ、稲妻を畏怖して信仰する宗教が生まれ、森や水や
火の中にも不可知なる力、見えざる意思があると思えばこそ、
自然崇拝の畏怖の想いが生まれたのも無理はない。自然崇拝は
自然現象なのだ。何となれば、身体も心も自然の産物だから、
様々な思考から様々な哲学や宗教が生まれるのも無理はない。
だからと言って、ウソにまみれた宗教群、心理学、脳科学を
野放しにすることも大きな問題だ。何となれば、教祖の荒唐
無稽なセッ法により、真実の真理を隠ぺいし、信者の理性的
思考を歪曲するのだから。。。信者よ 曲がれ!^^

自然崇拝から生まれた、それらの宗教は、時代とともに科学の
発達と共に人々の心の中から自然に消滅していった。霊魂とか
魂と言う概念は科学が否定したからである。それゆえ神だとか
霊魂などの存在性を否定することが、あたかも科学的な思考で
あると考えるような大きな勘違いも生まれたりする。それは
愚かな思考である。なぜなら多面的に検証することもなく、
自ら実体験することなく、魂とか霊は、存在しないと結論する
のは、決して科学的ではない。魂こそ唯一の実在なのだという
事実を、科学も心理学も哲学も知らない。政治もだ。
同じく、検証することも、実体験することも無く、神は存在
するとか魂は輪廻すると言う者たち、そうした宗教家たちも
科学者と同列にある。そこには科学者と、仏教者という呼び
名の違いがあるだけだ。或いはまた、素人という概念。

事実は人は誰もが、いく百万年も生まれ変わりながら、この
世に生き、そして死に、また生まれ、終わりなき輪廻転生を
している自分の心を知らないからこそ、死後の世界は無いとか、
あの世は無いとか、魂など存在しないとうそぶく仏教者たち。
例えば、Youtubeにおいて、テーラワーダ協会のスサマーラ
長老は、魂など存在しないといい、また死後の世界について
質問され、しばし返答もなく、「私に分からないのだから、
皆さんが分かるわけない。」と生意気なことを言っていた。
そんな彼らは、自分の心の履歴さえ知らない。自己の魂を
知覚していない愚か者が語る仏教は、ウソだ。

「わたしは仏教者だから神を信じない」という人は大勢いる。
しかしながら、君が信じる仏教書類は、お釈迦様の残した仏典
ではなく、どこの馬の骨が書いたものか、誰も分からないものだ
とは知らないだろう。仏教のを精査した学者は、仏典は信じるに
値しないものだと言っている。そのような偽書を、仏陀が残した
経典だと信じるおかしな人と、お地蔵さんに手を合わせる人と、
どこが異なるのか?

仏教徒は偽書の仏典を偽書と知らず、仏典を信じる。これが無知
ゆえの愚か。神を説く宗教を信じる者は、やはり無知ゆえの愚か。
同じ愚か者でありながら、信じる対象物が異なるだけ。

現代科学は、稲妻の生まれる現象の説明をするけれど、稲妻の
発生する電気の本質を理解していないというのだから、今でも
アニミズムのまぼろしに束縛されたままである。重力も分かって
いないと言うではないか。現代科学は。。。
以前も記事にした通り、現代の科学はファンタジー性から抜け
出していないのだ。このとことも遠からず論証するだろう。

自然とは何か?
この日浦もまた、子供の頃、小川の水の流れを何時間も見たり、
森林の中に潜むであろう神秘を知りたいと思い、可視的な森羅
万象の背後にあるだろう不可知な自然法則を知りたいと思って
いたから、子供の頃は、一種の自然崇拝者だったと言っていい。
しかし路傍の石仏であるお地蔵さんに語り掛けると言うような
愚は犯さなかった。それは、無機物だから。しかし有機物から
成る自然界もまた、日浦の問いに何も答えてはくれなかった。

だがしかしそれは、予告も無く突然やってきた。生きている
人間は実のところ、生命も感覚も無い死体の状態にあるのだと
知ったのは、五歳の時だった。その時の驚きは、今日も鮮明に
記憶している。生きている人間が生命も感覚も無いものだと
知ったのは、なんと思考では無かった。それはたかが5歳児が
そのような思考を持つことはないという意味において。
そのような不可思議な体験を皮切りにして、様々な超越的な
感覚・知覚が花開いていった。それらは思考では無かったし、
この世的に非常識な現象であるから、人に語る事さえも出来
ないものだ。

自然は何も答えなかった、というか、自然は森羅万象の背後に
ある秘密を開示しているけれど、それを知覚できないのが心の
性質であり、それが思考なのだと知るまでには、実に多年を
要したのである。それゆえに心の消滅・思考の消滅を説いた
聖者たちの教えが今日でも広まらない、また理解されないのは
無理もない。何となれば、現代人の特徴は、その人と思考とが
一体化していことにある。なぜなら人は、思考なしには生きる
ことが出来ないではないか。そしてまた、思考なしに直接知覚
するということができないではないか。しかし思考によっては、
森羅万象の背後にある不変の法則を知ることは出来ないのだと
言うことを現代科学は知らない。だから思考によって、物質の
原因の世界・非物質の世界を知ろうと言う矛盾を気づくことが
出来ないのが、現代人の大きな特色になっている。
何であれ人は、あれこれと思考するのではないかい?君よ。
だが思考がある限り、思考自体は思考の彼方(真理)へ行く
ことは出来ないということを知らなければならない。
不可知な真理を破壊するものは、理性という思考によって
考える思考なのだ。

ラージャヨーガを翻訳したビヴェーカナンダさんは、自然と
いい、それを神と言っていいとも説明している。また自然に
溶け込んだ魂達がいるのだとも説明している。このような
ざっくりした説明が、アニミズムが生まれる土壌でもあり、
曲解される言葉でもあり、また、聖なる科学の本を書いた
スワミ・スリ・ユクテスワ(ヨガナンダの師匠)さんは、
神が十二単衣の衣を着て、舞を舞うから分からなくなったと
言っていた。このような説明は、人を惑わすだけのものだ。

現代科学が、重力や電気の本質を分からないのは、自然を
理解していないからである。上記に名をあげた悟った魂たち
でさえ、森羅万象と言う自然の本質を、人が理解できる言語を
持って語ることは難しいのだという事例である。
もし人が、自然が理解できたなら、電気の本質も引力や重力も
知られる。時間と空間の秘密も開示される。
ざっくり言うなら、人体に生命も感覚もないにもかかわらず、
わたしは生きているとか、感覚器官を通して何でも知覚すると
思い込むように、自然界は陽炎の如く、無記でありながら、
生きとし生き物が生命現象を現し活動している、と思わせる
のは、人の感覚と思考なのだ。これがマーヤの本質だ。
動物も魂はあるけれど、思考をしないからこそ、自然と共生
出来ている。それゆえに思考と感覚とを離れて見るならば、
自然はその姿を消し去り、実在の相を露わにする。それを
観た時、自然界の本当の相を観るのである。人が感覚器官を
通して見る自然界は、自然の極々一部を見ているのであり、
自然の全体像を観てはいないのだと知ろう。

路傍に置かれた石仏は、思考しないし、哲学をしない、神を
語らない。それはその知性が無いから。石仏に向かって手を
合わせるのは、人の心・思考ゆえだ。人の心、人の思考が神を
空想するのである。だから神が人間を創造したという話しは、
マインドの創作なのだ。人が自然と呼ぶ世界は、思考しない。
神を語らない。思考する力を持っていないから。

ではどうして、アニミズムという思想が世界に生まれたのか?
それは、人が思考する知的な生き物であるからだ。しかし人の
心は無知なるもの。無知はまた妄想や空論を生み出すもの。
同じ生き物でも、ワン公は、地蔵さんに手を合わせない。
猿も豚も祈りを知らないだろう。そのような知性が無いからだ。
同時に彼らは、祈りの必要性を持ち合わせてはいない。自然と
共に生きているから。

では、万物の霊長と言われる人間が、その意識状態において、
なにゆえ「わたしは生まれた」とか「身体は自分だ」「この世は
本当だ」「心が自分だ」と言う思考の大きなウソを信じ込むのだ
ろうか?この様な大ウソは、歴史を通して、全人類が惑わされて
より久しく、その始まりも無く、終わりもやって来ないだろう。
なぜ最高の知性を持つ人類が惑わされたまま、間違った観念の
まま生きるのか?このような根源的な問いに関しては、世間の
人は知らないけれど、このブログの読者は、もう既に明晰なる
答えを知ったに違いない。しかし、もっと深く理解するために
アニミズムという別の視点を掲げたのである。

反映という鏡の原理
この大宇宙とは、あなたの中に在り、あなたの外側にあるという
人の考えは、大きな間違いであり、この世の森羅万象もあなたの
中に在るのだと言う事実に基づく説明は、人が容易に理解しない。
なぜ、理解できないのか?それは、その説明・真理・人の本性に
ついてを無知なる思考によって捕らえて、思考するからである。
では思考とは、いったい何か?一体どこから生ずるのか?
それが脳だと言う脳学者もいるけれど、脳だけが思考する運動の
実態ではないことは素人でも分かるものだ。なぜなら人体の五感
とは、外的な世界に反応して、感情や思考を生むのではないか。
だから、このことは、大脳を本社とした、各支店が五感であると
言う考察が自然であるだろう。つまり五感は脳と同質のもの。
五感無くして思考は成立しない。また記憶の利用が無くしては
物事を認識することは出来ないのだから、人体の感覚反応と記憶
(無限的な過去からの膨大量のカルマを含む)とが、思考を生み
出しており、思考は常に過去に支配されている古いものである
ことを洞察できるであろう。
それゆえに、思考は新しいものを中々理解できず、また、感覚を
通してしか知覚することが出来ないことについては、いつも疑問を
生むのではないか。懐疑的にもなる。時に否定をも生む。そうで
あるから、人の疑問や懐疑は、無知ゆえに生まれることが分かる。
では、無知とは何かと言うならば、思考そのものが無知である。
無知と思考と心は、同じものの異なる呼び名でしかない。


その思考という無知は、アニミズムと言う自然崇拝や様々な宗教を
生み出し、そしてまた哲学や倫理学、また文化人類学などの不要な
モノを生み出す。それゆえに基本が無知でありながら、知ったか
ぶりの大ウソつきを大量に生むのがこの社会であり、人は潜在的に
詐欺師の要素を持つ。それらの思考の無知の総計が人類史である。
そうであるから脚色された歴史を精査することも、ほとんど意味の
無いことなのだ。君は歴史学者?ご苦労さん。
この無知は、高い学力や学歴や知識によっては、決して破壊される
ことは有りえない。概して、頑迷な無知さの補強材にもなっている
ではないか。そうであるから大学は出ないほうがいいのではなく、
出た方がいいだろうが、学んだ学問とか知識、思想によって思考が
条件づけられていることを知ることが重要だ。これに気づける人は
稀だ。というか、いないだろう。

思考とは、それを心とも言うのだが、それは非実在でありながら、
外界と言う仮想の世界(マーヤ)に対する反映という鏡の原理に
基づく仮想的反応(心・思考)の一種であり、真理とも呼ぶ唯一
実在を知ることは全く不可能なのである。
これマーヤ・まぼろしと言うなり。それゆえ、あなたが言う
「わたし」は、まぼろしなのだ。

それゆえ、あなたの人生そのものがまぼろしであり、人生と
言う夢なのだ。老いも若きも夢の中の夢見る人。夢の人生に
なにか意義があるのだろうか。。。無いだろう。

時空を超えた宇宙船
人はまた、いつの時代でも、何をするにも、時間と空間の
大きな制約を受ける。現実と言うマーヤの仮想空間の中で、
時間と空間を超えて超然と生きる人は滅多にいない。
現代人は、時は金なりといいながら、お金のために時間を
費やすことを仕事だと言っている。それゆえに人は生涯の
労働者として奴隷化した生き方をする。これらは実際的な
大きい束縛であり、束縛から自由な人は、滅多にいない。

思考それ自他が、空間と時間を生み出していることを知る
人は滅多にいない。つまり思考(感覚・記憶)を消去する
ならば、時間と空間は幻想であったと知り、時空の制約を
超える。
地球と言う個体物、その300倍以上もあるという太陽と言う
物体が空間に浮かんでいるのは、引力だとか、重力だと言い
ながら、その重力の性質を科学は知らない。地球や太陽その
他の巨大な惑星群や恒星群が空間に浮かんでいるのは、画像
ゆえであるからだ。これを科学は理解していない。

科学が今よりも、より進歩した時、時空を超える宇宙船を
作るだろうと考える人は、少なくはないだろうが、しかし
科学の進歩がそれを可能にするのではなく、意識の進化を
経るとき、人は時空を超える。例えば、10億光年も離れた
惑星へ行くには、光りの速度でも10億光年かかるだろうと
人は言う。しかしそれが思考のもたらす大きなウソなのだ。
この大宇宙は、自分の中にあると知ったなら、移動すべき
空間も時間も消え去るのであり、10億光年もかかると言う
偽りの観念も消え去る。

時空を超えた人の観念は、他の物体にも作用するのから、
自分の身体と共に、その物体も同じくテレポーションする。
それゆえ現実の宇宙船は、思いのほか高度な化学装置では
なく、とてもシンプルであるからこそ、現代科学の知識でも
簡単に造れるのだ。

この時間と空間を支配すると、引力や重力も支配することが
出来るので、高度なものと思われる宇宙船は、現代人の思考を
超えて意外と簡単なものである。科学の進歩ではなく、意識の
進化であるから、太古から宇宙船はたくさん存在しているので
あり、歴史的な蓄積された時間は、幻想のようなもの。

100億光年もの彼方から、どうやって宇宙船が飛来するのか、
それらについての考察は、現代科学の知識を使うならば、
解明不可能であるだろう。現代の科学は、人の意識の進化を
妨げるマーヤの一面と言っていい。宇宙法則、自然法則とは、
本当の科学ではなく、マーヤの性質そのものを解明している
だけなのだ。ここが重要だ。つまり、科学が解明したことが
マーヤの性質であり、それが真理ではないと言うこと。

現代科学が限界を超えて進化するためには、意識の進化が
不可欠であり、人の意識の進化とは、感覚と思考という
マインド・心を超えればいいのだ。時の始まりを知らない
元よりの人の意識は、思考なき無想なのだから。

マーヤの法則に縛られた現代科学が知らない電気の本質、
引力や重力、時間と空間は、あなたがそれを支配するもので
あり、あなたから、それらの力が放射されているのである。
それは、自己を悟れば、ハッキリ分かる。
人は誰もがマーヤに支配されているが、総ての人の本性は、
マーヤを支配する偉大なる存在なのだ。その事実を想いだす
なら、あなたは、マーヤの支配を脱して、本当の自由になる。
自由と幸福は、魂本来の性質なのだ。思考の彼方にある無想の
境地は、宇宙の法則を超越した最も偉大なる至高の境地である。
そうであるから、皆さんは、そこへ還らなければならない。

アニミズムの章  とりあえず終わり