闇に光りを

セミナーの申し込みをされた受講生とのメール。

6月のセミナー参加しますので、よろしくお願いします。
3月のセミナーに続き2回目の参加になります。いつも
お守りいただき感謝です。お会いできるのを楽しみに
しています。

 
日浦 こんばんは 久しぶりですね。6月セミナー参加、
お待ちしています。集合場所と時間は、前回と同じです。
 
そうそうの返信ありがとうございます。 毎日、ブログ
チェックしていますので、全然久しぶりではないですよ。
サイババのブログなどは、私が疑問に思っていた答えが
書いてあり驚きました。いつもブログを読んでいると、
その時々の疑問の答えが載っているので、私のために
書いてもらっているような気がしています。
 
日浦 今回の記事「世界は、感覚と思考と言うエゴの
集積から成る」の国家犯罪を目の当たりに観た日浦の
体験もまた読者に対する説得力があるのではないか。
 
世論の中には、利権に群がる政治業者は多々居るけれど、
まともな政治家はいないとか言われたりする不透明な政界。
不透明なのは、政界に限らない。しかし、本当に政治家が
不在なのか?いいや違うだろう。
 
事実は、国民が無知であるから、無関心であるから、そして
また、彼らを監視しないことが、巨悪や馬鹿をのさばらせて
いるというのが現実である。そうではないかい?
 
普通なら闇に葬られ、国民は知る事さえ出来ない不祥事は
沢山あるのだ。日ごとの変化は数えきれない。しかし権力の
支配下にある報道が期待できないならば、Youtubeがあり、
ツイッターがあり、個人のブログがある。それらを用いて、
国民が彼らを監視して、不正行為を公開するならば、盗みを
働く闇夜にも明かりが差し、悪事がやりにくいことだろう。
恐ろしい検察法案の取り消しは、まさに国民の監視による
ものだ。ゆえに国民の多くは、このような実例を体験した
のである。このことをハッキリ認識すべし。
 
そうであるから、政治の様々な闇に対し、事実認識と言う
客観的な光りを投げかければ、そのことは、彼らの不正を
見逃さないと言う観察行為であるが、観察される高学歴な
国会議員とか官僚たちは、その優秀な頭脳と経験価をもって、
国民のための政治を行ってくれることだろう。そうすると、
嫌でもまともな政治をせざるを得ないな!(´;ω;`)とか最近の
国民の目は怖いな!(´;ω;`)という自粛行為が生まれ、それが
好転現象を生む可能性がある。
 
彼らを監視せず、何もせず、官僚や政治家を批判するのは、
単なる負け犬の遠吠えに過ぎず、彼らの耳にさえ届かない。
だよね?ならば、情けない遠吠えなどせずに、自分の為す
べきことが見えるのではないか?
 
闇を照らすもの
ここでいう「闇」とは、「人の心の中」を言い、心は暗闇の
中に住するものであるから、暗闇の中では、何も観えず何も
分からず、心は無知なる状態と呼ばれる。そして無知な心は
叫ぶのだ。あれはなんだ!?どうしてそうなるんだ!?なん
だってー?知らなかったなあー俺っておバカ?もっと論理的
に説明をしろ!などと言うのが心の無知なる証明だ。次いで、
知的探求と好奇心、論理的思考、哲学や心理学、宗教、考察と
呼ぶ憶測と空想、わたしという自我意識など、無知なる心の
闇から生まれ出る無知ゆえの負のエネルギーである。
 
それゆえ悪魔とは、空想上のものではなく、無知な心中に
住む霊的な負のエネルギーであり、生物学的な悪魔と言う
生き物が存在する訳ではない。もし、いたならば捕獲して
動物園に入れられるか?それとも刑務所か?それを君は見に
行くかい?多分、怖いモノ見たさに行くだろうね?それを
観たとたん、憑依されたりして(笑) ⇦ 笑えないね💦
しかしながら、現実社会には、悪魔など存在しないという
人も多々居るが、その発言こそは、悪魔が悪魔の存在性を
否定するための言い訳であると言っていいだろう。
なぜなら、世界中に起こる暴力や搾取、人殺し、諸々の邪悪、
戦争などは、すべからく、人の心が作りだす破壊的な負の
エネルギーであることを誰が否定できるのだろうか。
それゆえ悪魔は、人の心の中に住む邪悪なエネルギーである。
この論理が分かる人ならば、悪魔など存在しないという悪魔の
想念を否定し、悪を想うことなく、自分の心中を観察、点検
することだろう。
 
仮想の読者:「あのう~えーと、心は暗闇の中に住するもの
であるから、暗闇の中では何も観えず、」と書いてあるのに、
心の中を観察しろって、どーゆーことなのさ?
日浦:このことは既に、記事にしてあるんだよ?そして
心を観察した受講生さんの体験も公開してある。
 
暗黒という心の闇の中から、心自体が観る世界は、人の感覚
器官を通した外側世界であり、そこは、太陽光と言う間接的な
照明が与えられている。そのような構造性ゆえ、暗闇に住する
心は、心自体を観ることが出来ない。
外側の間接照明(太陽光・月・電気的照明)は、マーヤと呼ば
れる幻影を映し出し、心は、マーヤを実在だと勘違いする。
その生き様が皆さんの日常という生活であり、皆さんの人生と
呼ばれているのだ。
 
だから、皆さんの人生がどうであれ、楽しいとか不幸だとか
惨めだとか言い分は様々あれど、人生は何の意味もないという
事実を、人生は無駄だと言う事実を見抜かなければならない。
例え話でもいいだろう。よく考えて見よ。マーヤと呼ばれる
幻想の世界に生きるあなたの人生が、決して幸福である訳が
無いと言う事実を見い出さなければ、観えざる悪魔にも憑り
つかれたりしたまま、空しく生涯を終えてしまうのだ。
そしてまた、性懲りもなく幾度も生まれて来るのだ。これを
何百万年も繰り返す人間に憑りついた魂たち。
これは、決して脅しではないのだ。
 
闇を 照らすもの
冒頭に書いたように、「闇」とは、「人の心の中」を言い、
心は暗闇の中に住するものである。それゆえ暗闇ゆえの無知と
言う負のエネルギーである悪魔さえも住むと言う心の世界は、
常に暗闇であるから無知なのだ。無知ゆえの欲望と恐怖とが
外側から侵入する意識世界をこの世と言う。
暗闇の無知に在って、人は様々なことを体験し、学ばなければ
ならないと思う。教育の場面では、義務教育から始まり、高校、
大学、大学院を出る人も居て、それでもなお社会に出てからも
新たな知識を学び続けなければなければならない。学ぶことが
楽しいと言う人もいれば、苦痛だと思う人など、様々だ。
数万冊の書を読んだと言う人も居るが、それらは、言う間でも
なく、総てが外側の知識である。つまり、マーヤの知識であり、
外側の知識は、残念ながら、すべからくマーヤで在りえる。
まあ!やーだ!💦
無知な心が闇に住することを深く説明するためには、知識の
本質を説かなければならない。つまり、常に変化する外側の
知識ではなく、いわば内側の変化しない本質の知識について
である。内側の知識って何だろう?これを内なる知識と言って
いい。皆さんは、それを知らない。もし人が、内側の知識を
知っていたならば、外側の知識を求めることは止む。何と
なれば、外側の知識がマーヤだと知るからだ。
 
そのことが分かったとき、「僕は数万冊とは言わないが、数千
冊の本を読んだ」と言う人に対し、「それが何だと言うのか?
それで、どれほど賢くなったのかい?自己を見出したかい?」と
言い返す事だろう。人がこの世を去る時、知識も体験も記憶と
して持ってゆく。これがカルマの素である。もし、人が解脱を
果たすとき、蓄積した体験、学んだ知識の総てを捨てなれば
ならないのだ。何故なら、外側の体験と知識は、マーヤへの
束縛であるからだ。
このことを知らない人は、外側から仕入れたところの多くの
知識を得たのだと、うぬぼれたりもする。こうした人を馬鹿者
だと言えば、失礼に当たるかも知れないが、賢くはないのだ。
またもや引き合いに出すけれど、日浦26歳の丹沢山中瞑想は、
学んでいない電子工学や機械工学の最先端の技術が、自分の
内側にあったと言う体験をした。自分の内側に在った知識は、
断じて外側から仕入れた知識では無かったのだ。皆さんも
日浦の真似をしたらいいのではないか?このことを真似するな
とは言わない。ぜひ真似たらいいのだ。
「あのう~私には、外側しかなく、内側は有りませんが?」
などと言うおバカさんはいないよね?
「そうでは無くて、内側を観れない私は外側しか見えません」
なんてこと思う人も居ないよね?
 
内なる光りとは
感覚と 思考を消し去れば、たとえ残留するカルマを放置したまま
であっても、無知な心の暗闇と、真の知識とが取って代わり、闇と
光りとが入れ替わる時がやって来る。その時こそ、心の暗闇は消え
去り、真の知識が心を満たし、心自体は光り輝いて、知る者になる。
そして、欲望も恐怖も共に消え去り、永遠の平和がやって来る。
それは、もはや外側の知識を何も必要とせず、経験のないことや、
学んだことも無いことも分かるようになる。
その真の知識は、職業のジャンルを問わないので、地上における
最高峰の識者になると言っていい。それは、いわば全能の自己に
戻るのだ。
内なる光りとは、真の知識のことであり、それは、二サルガダッタ
マハラジさんのいう「気づきの太陽」のことでもあり、永遠不滅の
変化しない真の知識として、そこに常に存在するのである。この真の
知識を「知覚」と呼んでいいだろう。知覚とは何か?皆さんも知覚と
思考は似て非なるものであり、同じではないと分かるのではないか?
あれは何だ?それは、どうしてそうなるというのか?などというのは、
無知な脳の動きと思考であり、身体の属性なのだ。これを自我とか、
エゴと呼ぶ。心と呼ぶものは、自我、エゴの別名でしかない。
 思考の終焉
しかし、知覚は魂の直接的な属性であり、身体感覚の思考を超えて
いるからこそ、あなた自身、本当はなにも考える必要はないのだ。
これが「思考と感覚を消し去れ」という教えの意味することである。
このような恐ろしくも実に素晴らしく凄い教えを世間は知らないのだ。
この教えを理解したならば、あなたが取り組むべきことは、ただひとつ
しかないと知るだろう。それは、「感覚と思考とをひとつにして、
それを消し去る」と言う僅かな努力であると。
 青天の霹靂?
「いったい、どうしたら、しつこいマインド、また思考や想念を黙ら
せることが出来るのか?」と問う人がいたならば、大勢いるだろうが、
「その問いこそが愚かな自我とかエゴによる問いである」と言おう。
仮想の読者:「・・・ガ~ン!💦」
そしてまたつけ加えておこう。「本当にしつこいのは、マインドでも
思考でも、また自我でもエゴでもなく、それに同調し続けるあなたが、
しつこいのだ」と教えて、この記事を終りとしよう。
仮想の読者:「ガーン!ガーン!思考が止まりましたあ!!」
日浦:「それが本当なら、おめでとう!」
このような深い意味の真実を、世界の誰が教えてくれるのだろう。
この世では、思考を基にした哲学、倫理学、心理学、宗教がある。
それらが実のところ、マーヤだと言う真理を皆さんは聞いたのだ。
つまり思考によっては、幾ら高い理性と言えど、それも思考である
から、神を見出すことは出来ない。人の本性さえも見出すことは
出来ない。感覚と思考を超越した人のみが、神は存在しないことを
知る。つまり直接に知覚する。だから神を語る者は、みな、おかしい
人であり、妄想虚言家たちだと言っていい。
仮想の読者:「・・・もうついていけません!死にそうです💦」
日浦:「あなたは死なないだろう。そう言うのも自我なんだよ?」