生命は幻想

記事「クイズ3」の回答を示したこの記事を、
その内容からして、「生命は幻想である」と
改題した。

クイズ3にチャレンジした人の答えは、みな
正解です。間違いがある訳も無し。
この人、随分と深く勉強したな・・・と思いつつ
メールを読みむ進めると、答えは全部、先生の
テキストから引用しました。スミマセンm(__)m
と書いてあった。

そうであっても、文字化したことは、記憶に強く
残り、直ぐさま良いカルマとなり、マインドは
鍛錬される。これがクイズを出す意味なのだ。

さて、記事「クイズ3」に出した問いは、

目覚めた状態が、なぜ夢であるのか、その理由、
根拠となることを「ふたつ」挙げてください。
それの細かな説明は、なくてもOK牧場です。


答え1:この世を実在だと信じていること。
    これと類似したのもは、みな正解です。
答え2:生類の生命を本当だと信じていること。

答えの説明:上記二つの答えが、問いに対する
模範回答です。
答え1は、眠りの中、目覚めの中、共に画像を観て
いるから夢である。目覚めたら画像は消え去る。
答え2は、重要なので、下記に説明する。

【無断転載・流用を禁じます】
皆さん、生命を知っているだろうか?生命とは、
何を言わんとしているのか知らなければならない。

話しを簡単にするため、日浦5歳の時の体験を示す。
夕食のテーブルについた、父、母、姉が、なんと、
死体であったと知って、大いに驚いたという話し。
生きた人間は、身体に生命も感覚も無いと言う
驚くべき発見だった。このような体験話しも世間を
怒らせるかも知れない唐突な話なのだが、5歳児に
理解が出来なく、もちろん説明も出来なかった。

小学生の頃、幾度も幽体離脱を体験したけれど、
やはり抜け出した身体(横たわり、睡眠状態になる
肉体の事)には、生命も感覚も無いと知った。
しかし、その理由が分からなかった。
また、小学一年の入学式には、幾多の過去世を想い
だしたけれど、過去世に死んだ人がなぜ、幾度も
生まれ変わるのか、さっぱり分からなかった。
分からん事ばかりで、遂に「わたしは誰か?」と
自分自身に問いかけたけれど、返って来た恐ろしい
返事に絶句して泣いた小学一年。どのような答えが
返って来たかは、既に記事化したので省略する。
幼少の頃からの自己探求の末、ますます自分自身が
分からなくなった小学生。
20代になると、しばしば身体から抜け出た非物質なる
光り輝く者は、自分だと分かるのだが、霊的な黄金の
光り輝くシャフトを高速上昇する体験、光り輝く聖霊
とやらに幾度か話しも聞いた。色々と体験したけれど、
全部その意味がさっぱり分からんかった。

幾度も自分の心肺が完全停止した日浦自身の体験から、
身体の中には非物質の自己がいて、それが永遠なる存在
であり、個々の肉体は生命が無く、やはり身体は有限な
ものだ。人の身体は必ず崩壊するものだ。
これを世間では、死と呼んでいるけれど、人が死んだ、
生まれた、という世間の常識はウソである。なぜなら
マーヤの夢の中の出来事だから。
身体から抜け出す者はマインドであるが、マインドが
自己ではない。マインドの背後に実在する不可知なもの、
それを魂と言ったり、霊と言ったりするそのものが、
自己なのだ。
ネット上では、人は死なないと言う人も居るが、
それは間違いである。人の身体は、必ず崩壊するのだ。
そして、心、マインドもいつかは消滅するものだ。
しかしながら不可視なる魂は、永遠に死なないという
のが真実なのだ。幽体離脱した非物質の体は、魂では
なく、エーテル体と呼ばれるもので、それがマインドだ
と知ったのは、50代になってからである。

魂自体には、生も死も生じない。
では、生命自体が死ぬのか?それとも身体が死ぬのか?
それともエーテル体である心が死ぬのか?或いはまた、
アストラル体が死ぬのか?それとも、コーザル体が死ぬ
のか?これらに関して、誰も知らないのだ。だから人は
誰も、死について本質を知らない。ああだこうだと言う
人を含めて。

永遠の生命とは、魂のことであるか?それとも何を持って
生命と言うのだろうか?どうあれ、個体の生命は、有限で
あると付け加えなければならない。
再び生命とは何か?
本当に、魂が永遠の生命なのか?それとも生命自体が
永遠なのか?生命が魂なのか?或いは、魂のほかに生命が
あるのか?はてさて、生命とは、いったいなんぞや?
現実社会は、身体が生命だと思っている。或いは、身体に
生命が宿るとも言う。身体が生命だと言うことと、身体に
生命が宿ると言う表現は、ニュアンスの違いがある。
人間をより深く洞察するのは、ここからである。

生命探求の歴史
古代ヒンズー教やベーダンタ哲学が示したアートマンとは、
一体、何かという問いを持って、その語源を辿っていくと、
「息する」ことであると駒澤大学名誉教授田上さんは説明
してる。つまり呼吸であると。
アートマンの語は、「息する」という動詞からつくられた
名詞であり、「息しているもの」という意味がアートマン
の意味だと言う。「息しているもの」と言えば「この世に
存在する生物は、みな息しているもの、息づいているもの
ということになるだろう。古代のヒンズー、バラモン達も
生命について、医学が始まる以前から、深く考察していた
ことが、アートマンの語源の意味付けが物語る。

しかし、幾多仏典類は、仏陀がアートマンの存在を否定
したと繰り返し書いてある。そうした仏典は本当か?
単純に考えるならば、生命ある生類が存在しないなどと、
仏陀がいう訳もない。この解釈を間違えるなら、仏典類に
登場する仏陀は、アートマンを説いたヒンズー教もベーダ
ンタ哲学、バラモン教さえ否定したように受け取られかね
ない。それは、有りえない。この矛盾を仏教学者は、どう
説明するのか。疑似仏教者の説明など聞きたくもないが。

生命と身体の分離
身体と言う言葉、生命と言う言葉、これを切り離さないと
生命の謎に迫れないのだ。5歳の日浦が目撃したこと、
即ち、身体には生命も感覚も無いと言う事実。しかし
生命活動が日常にあると言う事実。この分離されるべき
二つの異なる言葉が結合した状態において、生命と言う
言葉が誤解を生んでいる。

結語:身体それ自体は、感覚も生命もない単なる有機体だ。
それと魂とが接合する時、身体は、生命と感覚を得るのだ。
つまり、身体に生命が宿るという説明がそうである。これが
分離すべき二つの言葉の結合状態であり、人は生命がある、
人は生き物だ、と言う感覚が生まれる。
この分離とは、魂が身体を放棄することである。すると、
身体感覚が失われて、個体(肉体と自我)の崩壊が生じる。
皆さんは、この理解だけでいい。もっと深く探求するなら、
魂が生命か、或いは生命は魂と別物かという根源の問いが
あるが、それは知らなくていい。皆さんが自己の魂を知覚
した時、すべてがハッキリと分かるから。

生命の大きな問題点
わたしは生きていると考える人として、生物の抱く生死
観を超えることは難しい。わたしは、生きていると言う
観念さえ勘違いだから。
魂自体は、生命を超えた存在でありながら、生きよう、
生きたい、生きねばならない、と言う人間の強い束縛が
魂を無力化している。これが生命と言う幻想から生じる
あらゆる執着の源なのだ。物質的な諸々の欲望と愛着は、
魂が身体を通して知覚する間違いなのだ。この間違いに
翻弄されている地上の魂達よ、解放されよ。
紫蓮さんと出会った頃、エゴをどのように表現すれば
いいのかと、お聞きしたら、「生存欲求そのものだよ」
そう即座に答えられた。なるほどねと答えたけれども、
実は、3日間も考え込んでしまったのだ。

エゴとは、生存欲求そのものと言われた紫蓮さんの
教えは正しい。それは、非自己であるエゴをキッパリ
捨て去れと言う教えである。

人間の解明
人生は大切だ、命が大切だ、という主張、命の生得権を
主張するのは、あなたでは無く、魂にとって仮想の生を
楽しもうとする成りすまし野郎の欲望である。という
驚きの現実なのだ。そうだから、成りすまし野郎と決別
して離婚するならば、あなたは、魂の自由と幸福を手に
する。

人として生きる、生きようとする衝動は、この幻想の
生命現象があるからであり、それゆえに神を語る詐欺
宗教が絶えないのだ。
「与えられた命に感謝します」や「生まれたことに感謝
します」と言う観念「先祖の霊を供養する」などは、
成りすまし野郎のものであり、その観念があなたの魂を
殺しているのだ。先祖は、肉体の提供者の系列であり、
それは、魂の系列と異なる。
生命は、神が与えたものでは無い。神は存在しないし、
生命を創造しない。生命は、自然法則の一環なのだ。
だが、もちろん生命は尊い。しかし、そこに留まる限り、
命を尊重する考えに束縛される限り、生命を超えている
あなたは、目覚めた眠りのままなのだ。だから人生は、
事実上の夢なのだよ。諸君。

本性のあなたにとって、生と死は、幻想であるから、
生命も幻想である。生命とは生と死を言うのだから。
生命が幻想だなんて言う驚愕すべき本当のことを誰が
教えてくれるのか?古代バラモン教、ウパニッシャド、
ヒンズーや他の宗教、哲学、医学、心理学、自然科学、
脳科学も知らないからこそ、今まで公開されなかった
生命の本質を、ヴェールを取り去り、ここに明らかに
した。これが分かりさえすれば、人類を束縛して来た
諸々のウソが崩壊してゆくだろう。 


生と死を超然と超えよ
ラージャヨーガの本の中で、作者のビヴェーカーナンダ
さんは言った。「離欲こそ解脱への唯一の道である」
これを言い変えると、生死観、生への渇望、死への
しがみつき、死への恐れから生まれる諸々の欲望と
いうエゴ性の超越こそ、解脱への唯一の近道である、
となるのだ。
自分が生物だと思えばこそ、生きる渇望、死への恐れは、
生への強い執着としがみつきを生む。それは本能になり、
生まれるたびに人を盲目的に支配するのである。
しかし生命を超然と超越している魂にとって、人の生と
死は、妄想なのだ。魂に生と死が生ずることはないから
動物の生死観は、魂に無いのだ。しかし、身体を持つと
真逆の観念が生まれ、魂は人体とこの世に強く束縛されて
しまう。魂は身体が自分だと勘違いし、マインドと自己
同一化する。このようにして、マインドは、至高の魂を
奴隷化しているのである。そしてまた至高の魂は、自分が
マインドに奴隷化されていることをまったく気づけない。
そうであるからこそ、至高なる魂は、救いようがない
状態にあるのだ。

更に世間知である「生命は尊いものだ」とか「最も
貴重なもの」と言う間違った観念の重しを課すので、
この呪縛の観念から逃れられる人は、ごく僅かである。
というか、殆どいない。
事実としては、生命とは、人が思うほど貴重なものでは
無く、それほど大切なものでも尊いものでもなく、私は
人だと勘違いする者にとってのみ、生命は重要なのだ。
生命を本当だと思うことが、マーヤに束縛されているのだ。
本当に大切なのは、生命を超えた自己の魂であるけれど、
それを人は知らない。これを知ることが本当の悟りだ。

魂の知覚の間違いにより、物質の身体と心と接合して、
そこから抜け出すことが出来なくなったのだ。しかも
何百万年も。。。これゆえ、個体的な人として、あら
ゆる体験の苦悩や障害などが生まれるのである。
あなた自身が愚かであり、過去に悪いことをしたから
不幸が生まれるというのも事実であるだろうが、知覚の
間違いから不幸と諸悪が生まれるのである。
人は誰もが、自分を解放しようと言う決意、熱望を
抱かなければ、永遠に苦のドリームランドの奴隷だ。

再び、ジャンプ台の話し
ただ知らずと、何百万年もかけて地上を彷徨う皆さん、
この説明を聞いて、もし正しく理解するならば、僅か
数日を持って、生と死を超然と超越できるだろう。
そんなことは難しい、というならば、それが成りすまし
野郎のセリフだと知ろう。
それは、転生輪廻の終わりを迎えるための、この世の、
人生の卒業式であり、同時に解脱のジャンプ台に立つと
言うことだ。
その心は、かつてないほど晴れ晴れとするのだ。なんと
なれば、マーヤの奴隷の足枷である総ての欲望や束縛から
解放された至福状態に近いからである。
もし、瞑想やヨーガをやろうとする人は、唯一の知識が
必要であり、このジャンプ台に乗ってから始めないと、
何の効果も生まない。ネット上の瞑想は、ゴールと言う
目標、ジャンプ台に立つ知識、唯一実在の知識がなく、
修練方法もいい加減だ。だからゴミのようなものだと
言うのである。宗教とて、同じだろう。解脱を果たした
教団教祖は、誰もいないのだから。


このブログを通して、唯一実在の知識を得た皆さん、
更に、生命の神秘もここに明かされたのだ。そして、
人類解放のエネルギーが、この地球を抱きかかえている
のであるから、皆さん、安心して解放へのジャンプ台に
立て。勇気は要らない。この教えを理解するだけだ。
クイズ3の回答 終わり。