批判の是非

このブログにおいて、日浦は、批判が多いと思う

読者は、少なくはないのだろう。だが、日浦の放つ

批判を快く受け止める読者も少なくないのである。

しかし、批判することを悪口や誹謗中傷、否定だと

勘違いする人もいるので、批判の意味と根拠を少し

説明しよう。

 

① ヨグマタおばさんを批判した時、読者から

批判あり。「聖者批判は間違いではないか?」と。

日浦の返信は「その通りです。しかしあの人は、

解脱した聖者ではないので、日浦は聖者批判して

いません」であった。

② 信次批判において、恐らくは幹部だろうが、

「現役会員がいるのだから、信次先生や教団批判は

控えるべきではないか?」と。

日浦の返信は、「日浦は、信次の素顔を知っている

からこそ、現役会員が退会するように事実を書いて

いるのです。信次批判によって、会員の大勢が退会

したので、批判の目的に叶っています。あなたは、

退会しないのですか?」であった。

③ 聖者の批判はおかしいと言って、日浦に噛み

ついて、軽くあしらわれた某読時は、再びラーラ

沖縄へ問いを発し、その問答が記事化されている。

噛みついた人は自らの内面に、噛みつく、非難する

心の因子がある事を棚に上げているのではないか。

いったい、なぜ、批判が悪いと言うのだろうか。

まさか自分が批判するのは正しく、日浦の非難は

悪いなんてことを言う頭じゃあないだろうね?

④ クリシュナムルティーの批判については、

彼は真我に到達した人だとして、その存在性は

認めているのだ。ただ、他者を解放する力が無い

と言うのに「人を絶対の自由に導く」と標榜して

いながら彼の最後の講演会で、「わたしの教えを

聞いて誰も悟らなかった」と愚かな発言をした。

彼自身の公約を自ら果たさない発言であるから

日浦は批判したのだ。

二サルガダッタマハラジさんの本のなかには、

クリシュナムルティーは、どういう人か?という

訪問者の質問があった。師いわく「彼がなんだと

言うのか?」と言下に答えている。

加えて、彼の境地になるには、誰かが説明しなけ

ればならないと答えている。つまりクリシュナム

ルティーは、真我に酔いしれていて、そこへ至る

方法論を公開しなかったのだ。

そのくせ「わたしの教えを聞いて誰も悟らなかった」

などとアホなことを言ったから、日浦に批判された

のである。

⑤ ヨガナンダ批判は、彼も真我に到達したことを

認めながら、自分が作った200校を放棄して、その

生徒たちを見捨てた事を批判したのである。彼もまた

他者を解放する力が無いにも関わらず、多数の学校を

作ったが、その結果、誰一人として解放しなかった。

 

このように批判の主意は、真我に到達しても未熟さを

抱えたものがいることを読者に知らしめることにあり、

成熟してから真我に入った方がいいのだということを

読者に提言しているのである。

これらのことから日浦は、聖者を批判したという

のは、事実である。だが、日浦が聖者を批判したと

思えば、間違いになるのだ。なんとなれば、あまたの

聖者を超越した存在、あまたの魂達と、あまたの生命

とを自己に内包する唯一の実在それ自体、それは、

無限者とか、ブラフマンとも呼ばれながら、かつて

地上に現れたことのない巨大なる解放のエネルギー

それ自体の意思が、小さな聖者たちの間違いを批判

したと言うことなのだ。

このことは、後の出会いに依る紫蓮さんから告知

された事ではあるが、それよりずっと前から日浦は

自覚していた。記事「下落する黄金光」を参照。

 

そうであるからこそ、日浦から見るならば、聖者が

なんだ?聖者批判が問題あるのか?と言うものだ。

イエスキリストも聖者のひとり。彼とて小さい。

歴史が彼をスーパースターにしただけ。

皆さんは、とりあえ、聖者の境地を獲得したらいい。

聖者と言われるのは、感覚を超え、思考を消し去り、

カルマの束縛を断ち切って、マインドを超越意識・あの

世の最も高い霊的世界に没入させた人。

 

皆さんは、知らないけれど、インドの偉大な哲人

であった、釈迦(ゴーダマ仏陀)は、行く先々に

おいて、邪教を邪教として批判し、偽りは偽りで

あると批判して、間違った宗教を間違いだとして、

公然と批判したことでも有名なのだ。そうした

お釈迦様の実像は、疑似仏典には書かれていない

だけなのだ。

ゴーダマ仏陀の口を通して、邪教を邪教だと公然と

批判したのは、日浦の身体を投影している至高の

彼なのだ。「日浦さんの想いは、ゴーダマ仏陀の

想いであり、ゴーダマ仏陀の想いは、日浦さんの

想いなのですよ」紫蓮さんの言葉。

仏陀の時と同じく、その彼は、日浦の口を通して、

真理を語り、また邪教を邪教だと批判している

のである。

 

ラージャヨーガ解説のヴィヴェーカナンダさん、

人が言うウソを聞き流すこと、黙認することは

黙認するその人が不誠実だからと言っている。

 

日浦は、世間の偽りのベールを剥がし、世界が

隠した真実を明らかにし、人を解放するために

存在するのであるからこそ、偽りの宗教の批判、

ネット上の間違ったスピリチュアル批判、また

インチキかつ危険なヒーリングについての強い

批判が生まれるのは、これ必然の道理なり。

真実は真実として認め、ウソは真実では無く、

ウソであるという事実を語っているだけです。

それでもなお批判が許されないと言うならば、

批判の意味を辞書で調べて欲しいものだ。

また、批判が悪いと言うのなら、世界は極度な

共産主義社会になりかねないだろう。

決して批判を許さなかった狂気のヒットラーや

スターリン、毛沢東の様な怪物たちが生まれるに

違いない。それゆえ批判というものは、必然性を

もって起こるものだ。

 

それでも批判は良くないという人がいるならば、

「あなた自身は、想いと呟きにおいてさえ、一度

たりとも批判をしたことは無いのか?」と聞いて

みたいものだ。無いと言い切る人は居ないだろう。

そうでありながら、なぜ他人がする批判を悪いと

言うのだろう?

 

つまり批判には、二種の相あり。

ひとつは、言葉や文字による現れた批判。

ひとつは、言葉や文字ではなく、想いによる隠れた

批判である。想いや呟きの批判は、現れた言葉や

文字よりも、えげつないのではないだろうか?

本人のいないところで、その人の批判、悪口を

醜く言う人は、沢山いる社会であるが、どうして、

本人に言わないのか?

だから、文字による日浦の放つ批判は、陰口や

陰険ではなく、真実を明らかにするから優しい。

 

社会に対し、偽装されたウソや、諸々の害毒を

流布する諸々のものをウソだとか、間違いだ、

危険だと批判することが、なぜ悪いのだろう?

批判それ自体が悪いことであり、間違いだと言う

ならば、その論拠を示してくださいと言いたい。

 

批判すべき対象を無視する人、公然と批判しない

という人は、どういう人か考えて見たらいい。

多くは不誠実であるに違いない。指摘する勇気が

無い。同類のウソつきかも知れない。善悪を識別

できない人かも知れない。この社会がどうなろうと

事なかれ主義なのか。

 

だからと言って、批判を推奨している訳ではない。

批判された人が、反発をすることなく、内省し、

間違いを改める場面もあるから、それは、批判で

なく、忠言でありえるだろう。

 

日浦の最終解脱のとき、無限数の魂を抱え込み、

彼らを唯一実在のブラフマンの中へ連れてゆくと

公言しているのだから、今までに批判された者、

これから非難されるだろう者たちも、日浦が解放

すると言っているのである。それゆえに誰を批判

しようと、批判した彼らを否定してはいないのだ。

 

皆さんの全員とは言わないが、批判は良くない

という根拠なき思考の刷り込みを、どこから

仕入れたのか、自分を点検しなければならない。

この際、ウィキペディアの「批判思考」を一読

されたし。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E6%80%9D%E8%80%83