揺るぎなき確信

【 無断転載を禁じます 】

 「自己解放のジャンプ台に立つ」第一歩は、

「揺るぎない確信である」と、われ日浦は

言うなり。

しかし、揺るぎない確信の意味を皆さんは

知らないのだ。知らないことは恥では無い。

知らないのに、知ったかぶりして、虚言を

語る者がいるとするならば、そういう輩は

どこにでも沢山いるのだが、それ自体が恥で

あり、その恥を恥とは知らず、虚言や妄語を

語る者こそ、まさに恥知らずと言うのである。

皆さんは、大丈夫だろうか?

大丈夫だよ、皆さんは。

ただ、成りすまし野郎を抱え込んでいる人が

いるとするなら、抱え込んでいる成りすまし

野郎は妄語を語るだろうが、自由な魂である

あなたは、大丈夫なのだ。

この意味を理解した人は、ジャンプ台に立つ

ための揺るぎない確信を持つことが出来る。

そこで再び、誰もが否定することの出来ない

であろう「揺るぎない確信」の意味を明らかに

しよう。

自我の解明

「身体は、わたしだ。心は自分だ」という想念は

自我意識と呼ばれ、エゴとも呼ばれるものだ。

自我もエゴも実のところ、ふっと一息かければ、

飛び去る微細な想念でしかない。

それは、あたかもタンポポの胞子がそよ風にさえ

持ち去られるが如く実に軽微なものだ。

にもかかわらず、何百万年もの永き時を経て、

繰り返し繰り返し思い続けてきた想念であるから

こそ、あたかも不壊のヒマラヤ山脈の如く、

マインドに固定された不動の想念になっている

のである。これは、まさに糠に釘の逆を行って

いるのだ。

 

人類は憑依されて来た

かくして人々は、誰であれ、何百万年もの永き

時を、自我、エゴ、想念、思考に支配されてきた

のである。そのことを人は知らない。知らない

ことは恥ではないが、知らなければならない。

これを別の言葉を持って説明するなら、あなたは、

無限の時を経ながら、自我、エゴに憑依されて来た

のだと言っても過言ではないのだ。なぜなら想念や

思考は、外来のモノであり、あなたのモノではないと

教えて来た通りなのだ。

あなたに憑依しているモノは成りすまし野郎である。

そうであるから、単に成りすまし野郎が自分の中に

いるという話しを聞いただけでは、

この揺るぎなき確信こそ、ジャンプ台への第一歩
であるが、揺るぎない確信の意味を知らないモノが
人のなかにいるのだ。それは、誰か?と問えば、
皆さんは、それは、「成りすまし野郎です」と
答えるであろう。それは、一つの正解であるが、
答えがあまりにも浅すぎるのだ。なぜか分かる
だろうか?

という問いの意味することなのだ。もし、人が

糠に釘の状態ではないとするならば、成りすまし

野郎と例えられた話しを、また記事を読んだその

瞬間、成りすまし野郎を排除しなければならない、

という堅固な決意が生まれるものなのだ。

そのような即座の決意が生まれないのは、ラナマ

マハルシさんの本のなかにある言葉「あなたは、

自我ではないと教えられたにも関わらず、なぜ

今でも自我のまま、ここに居るのか?」という

問いがそれなのだ。

このような糠に釘状態はまた何百万年もの永き

時を経て、あなたを支配しているのである。

「セミナーを受講し、糠に釘のクイズにも応募

したから、わたしゃ糠に釘ではなくなったよ」と

思う人がいるならば、それを糠喜びと言うのでは

ないだろうか?何百万年もの古き糠漬け君よ。

塵も積もれば、山となる。糠も積もれば、山と

なるだろう。だから自我と言う単なる想念もまた、

何百万年も繰り返し繰り返し蓄積して来たから

こそ、あたかも不動のヒマラヤ連峰の如き山と

なっているのだ。

 

これを聞いて、これの意味を知った賢い人は、

一を聞いて、十を知ると言われるように、

いったい何を知るのか?

 

この記事に書かれた意味をもし理解したならば、

第一段階の瞑想、第二段階の瞑想を飛び越えて、

すぐさま解放のジャンプ台に立てるのである。 

と言う事を理解するのである。