自己の証明

皆さんは自分と言うものが身体と心とを

有する人間でありながら、しかしながら、

その本質は、不可視なる非物質の魂であり

続けている事実を知らないのです。

それゆえ身体と、その属性である心は、

あなたでは無いのだ。という深淵なる

真実の教えがあるのです。

それゆえ、自分と言うものの存在証明は、

物質性の身体や心の存在感覚の否定から

始まり、同じく物質から成るこの世の

存在性も否定されなければならず、遂には、

不可知の非物質なる魂を直接認識するプロ

セスを持ってのみ、自己の実在証明が為さ

れるものである。

言い換えるなら、物質なる心から生じる

思考や理性の領域内においては、決して

非物質の自己を悟れないと言う事を人は

知らない。知ることが出来ない理由は、

悟りも自己の存在性についても、物質に

縛られた思考や理性を用いるから。

 

また身体の属性である感覚器官が世界を

捕らえている限りにおいおては、それが

物質に束縛された意識状態における知覚

認識であるから、この知覚・認識もまた

不可知の非物質なる魂の知覚認識の悟りへ

到達する事はできない。だから人は自己を

悟ることが難しい。

そしてまた、悟りと言う言葉に興味を持て

ない人が沢山いる理由は、身体は自分だと

言う頑迷な思い込みに支配されており、

物質とは、まぼろしであるにも関わらず、

物質から成るこの世は面白く、本当に存在

する世界だと思う錯覚による存在感と、

そこそこの満足感があるからである。

そう思えばこそ、悟りなんぞ、われに何の

用があるのか?というのである。

このように人が思考と身体感覚を持って

それに依存している限りは決して非物質

なる魂を直接知覚することは出来ないと

いう知識さえも無い現実。なぜなら人は、

マーヤ・まぼろし世界の住人であるから。

今のところ。本当は、数百年も前から。

 

心理学者とか、哲学における存在証明は、

思考と言う物質性の枠組みから抜け出して

いないとすれば、それらの存在論は架空の

ものだと言えるだろう。すべての物質は

変化して滅びゆくものだから。彼らの説く

存在論は、物質性に立脚しているため矛盾

しているのであり、そうした彼らは物質的

世界から離れて、それの深淵である非物質

世界を知覚すると言う解脱体験をしない

限りは、自己の存在性を証明することが

できないのである。

 

心理学と同じく、物質とエネルギーその源を

探求する自然科学や宇宙論を展開する知的な

世界においてさえ、思考と理性を用いている

から、物質性を超える解脱体験が無ければ、

マーヤ(物質性)に束縛されたままなのだ。

 

それゆえ悟りとか解脱という言葉の意味は、

宗教の世界にだけ在るのではなく、あらゆる

職業上において必要な知識であり、存在の根

底である真実を知るために不可欠な直接の

知覚認識する力である。

人は誰もが自己(霊的存在)を知るためには、

物質から成るマーヤの世界からの脱出すなわち

解脱の体験を持たなければならない。自己認識

における自己を定義するには、不可知なる魂の

実在性を絶対条件としなければ、実在性、存在

論は成立しないのだ。なんとなれば、すべての

物質は、その形と名を持ち、微細に変化して、

変質しながら崩壊する宿命にあり、それらの

物質的な存在性は、曖昧なものである。

変化も崩壊も無い非物質なる魂のみが名も形も

無く、永遠に変化しない唯一単一の実在なのだ。

それを知覚することが自己証明なのだ。

 

永遠の過去から響き渡る声なき声は

あなたは誰なのか?

わたしは誰なのか?

 

わたしは、山岡 源太郎ですと答える者は、

物質性を抱いている存在性の感覚であり、

感覚は単なる観念であるから、非物質なる

永遠の自己を証明した人の答えではない。

わたしは、桜花 咲子ですと答える人もまた

マーヤの住人なのだ。なぜなら、崩壊する

物質世界と身体とを本物の実在だと信じて

いるからである。そのような彼ら彼女らは、

永遠の転生輪廻を楽しむ人であるに違いない。

人生は面白いとか、苦しいとか言いながら

終わりなき輪廻に束縛される魂たちは、

無意味な輪廻を繰り返していることさえ

知らないのだ。

誰にとっても人生そのものは、根源的に

苦であり続けていることを知らないのは、

この世が事実上のまぼろしだからである。

そうだからこそ、この世界は実在では無く、

まぼろしなのだと観ぜよ。

つまり、人生(まぼろし)は、楽しいなど

と言う妄念を破壊しなければ、マーヤの

感覚的世界を抜け出すことができない。

なぜなら、心が知覚する事に興味を示す

こと自体、あなたは束縛されているのだ。

なんとなれば、心それ自体が物質世界と

言うまぼろし(マーヤ)を生み出すもの

であるから。

ゆえに自己の証明の絶対的な条件は、心と

いう思考作用、無限的記憶の集積、その

再生原理と言うカルマ、そして、感覚を

超えなければならない。だから不変なる

自己証明への修練は、簡単ではない。

 

このような大業を成し遂げるのは、自分

自身であり、他者が成り代わることはでき

ない。それゆえに荒唐無稽な宗教や神の

概念は、あなたを解放へ導くものでは無い

と知るべきだ。

なぜ宗教が荒唐無稽なのか?

宗教は、みな異なる教義を持っており、

そのような多様性ある教義のひとつである

それぞれの宗教は、教祖の誰もが唯一実在

の真理を知らないからこそ、それぞれの

異なる教義があるのであり、そのように

唯一の真理を知らない無知な教祖たちの

ドクマに洗脳され、束縛される人の集団が

教団と呼ばれるものであり、そのような

れぞれ異なる教義への信仰信念と言う

偏狂は、妄想と言っていいものだ。

それゆえ宗教は、自己の内界を自分自身が

探るという自己の存在証明への道ではない

のである。

人がもし理性的に考えるなら、究極の実在は

唯ひとつの真理である。という認識に至る

であろう。それは、例えば太陽系内において、

太陽は唯一つだと言い得る客観性のように、

無限の惑星や恒星、無限空間という多様性を

もつ広大な宇宙もひとつであると認識できる

ように、真理を誰が語ろうと、真理は同一の

ものであり、唯一の実在のものであらねば

ならない。それゆえすべての宗教は、唯一の

実在を説くべきであるが説けないのだ。

それゆえ、様々に異なる教義を語る幾多の

宗教は、どれもが唯ひとつの真理を知らない

のである。それゆえに宗教は、荒唐無稽な

ファンタジーであると日浦は言うのである。