わたしは在る

「わたしは在る」というフレーズは、南インドの

ラナママハルシさんと、同時代の聖者・二サルガ

ダッタマハラジさんの現した書籍タイトルであり、

わたしという存在性と実在性の意味を相反的に現す

ものです。

 

彼の説いた「わたしは在る」の自己存在論は、

言う間でもなく、身体を持つ人間に関する存在論の

肯定ではなく、また物質世界を実在だとする概念、

それを否定したうえでの非物質世界である霊的な

自己の実在性を語り示したものです。

 

つまり、「わたしは身体と心とを有する人間である」

という物質的自己存在の主張の否定を説いたのです。

この自己存在の論説は、非物質の霊的世界の肯定であり、

不可視なる霊的世界を実在だと定義するものであり、

その論説は、心理学や哲学上の存在論・実在論とは、

大きく異なるものです。

更に進んで、実在の霊的な自己を真我と呼んでいた

けれど、真我の自己は、わたしは在るとさえ言わない

のだと説明しているのです。では、わたしは在るの

意味は、一体、なにかと問わなければならないのです。

わたしという自己認識の正体は、物質の身体感覚から

生まれた単なる観念を言い、それをエゴと呼んでいる

のです。それゆえに、わたしは在るは、偽りであると

して、エゴの言う「わたし」を否定しているのです。

エゴの否定は、物質世界というマーヤの否定であり、

物質の身体と心との否定を含むため、人間の全存在、

その社会の全側面の否定を意味しているのです。

すべてを否定し、最後に否定のできないものが残った

ものが真我であり、つまり自己だと説明したのです。

そのように説明する一方で、人は、身体と心と世界に

束縛されたものであるから、エゴ・マーヤを打ち破る

ことが難しいとし、真我の自己を知覚する手法の一つ

として、「わたしは在る」という観念を持って、それに

精神を集中し続けることにより、エゴ・自我は、ついに

破壊されると説いたのです。このことを二サルガダッタ

マハラジさんは、マインドは注目を奪われて消え去ると

説明した。そのような精神集中の結果、偽りの「わたしは

在る」も消え去ると説いたのです。

 

ラナママハルシさん、二サルガダッタマハラジさん、

この両者は、ヨーガを必須ではないと説明したうえで、

それぞれが示した悟りへの道は、ヨーガの基本である

精神集中を含んでいるのです。精神集中は、文字通りに

訳すと意味を間違えるのであって、集中という言葉が

適切ではないかも知れない。では、どのような異なる

言葉を持って、精神集中を説明できるのか?その解は

数語を持って語ることが出来るけれど、読者から誤解

されるので省略する。

 

両者の教えの要点は、人に不可視なる霊的世界

こそが永遠の実在世界であるということ。

物質の身体と心を自己だと思うこと、即ちその

観念そのものが偽りであり、それがエゴであると

いう単純な指摘なのです。

この世界は、実在であり本当だと信じ込むことに

より、身体が自分だ、心が自分だと信じ込むので

あって、その勘違いは、自己の存在性を証明する

事が出来ず、それゆえ、二元性の根本原理である

快と苦を体験するしかないのだと言うシンプルな

教えです。

 

皆さんの日常において、色々と体験し、考えたり

思うことのすべてにおいて、それに隠された主語は、

「わたし」です。それが偽りの自己です。それゆえ、

わたしと言う意識を持つ皆さんは、自分が偽りの存在

であり、エゴであることを自己の存在証明だと勘違い

しているのです。

 

「わたしの否定」こそ、実在の自己証明であると

言う事を、両者は異なる言葉を持って、説明した

のです。それゆえ「わたしは誰か?」という根源的

な問いが発せられない限り、偽りの「わたし」は、

あなたをいつまでも支配し続けるのです。その在り

ようが成りすまし野郎の人生であるということです。

自我とかエゴという偽りの「わたし」を自己の「成り

すまし野郎」だと、日浦は例えているのです。

わたしという文言より、成りすまし野郎という方が、

嫌悪感へのインパクトがあるからです。

 

わずか7歳にして、「わたしは誰か?」という根源の

問いを発した日浦でさえ、自己証明に費やした多くの

年月があり、しなくてもいい苦楽を体験したのです。

 

皆さんもまた1日も早く、「わたし」を排除したほうが

いいのです。なぜなら、あなたが言う「わたし」とは、

単なる「成りすまし野郎」だから。

 

「成りすまし野郎」即ち「わたし」の消滅こそが自己愛

の本質であり、それが対象なきすべてに対する愛の本質

なのです。しかし成りすまし野郎には、愛は有りません。

それでも成りすまし野郎の人は、愛があると言うけれど、

その愛は破壊的なのです。なんとなれば、好ましいと思う

異性を愛する時、その愛は独占欲や所有欲を含んでおり、

束縛をも含んでいるのです。その愛が得られないなら、

嫉妬や憎しみにも変わるものなのです。

そのような愛の主体としての「わたし」がある限り、

それは、あくまでも成りすまし野郎の愛であり、即ち

エゴです。そんなエゴの愛を向けられた客体としては、

はなはだ迷惑な場合も生じてきます。

片思いして悲しむ人は、成りすまし野郎が悲しんで

いるだけなのです。

本当のあなたは、何処にいるのだろう?

 

人に親切でなければならないとか、愛ある人に成ろうと

思うのは、言うだけなら誰にでも言えるけれど、それを

可能にしない利己的なエゴ・成りすまし野郎の想念だと

いう真理を見なければならない。

打算も利害もなき不変の愛あるあなたを、あなたは

見失ったままなのだ。そうだから、成りすまし野郎の

人生には悲しみが生じる。不幸や苦も生じて不思議は

ない。

 

常に変化を繰り返し、やがて破壊される宿命にある

身体と、わたしは在るという観念は、不可知なる実在

の自己を反映した観念でありながら、わたしという

自我意識を反映する不可知な主体の自己が存在する

という深い意味なのだ。