宝の知覚

国際的ナイトクラブのべラミにおけるボーイの

仕事は19歳の田舎者にとって、日々が刺激的で

あった。そこで見聞し、また体験した様々な

ヒューマンドラマを面白おかしく、もしも書く

ならば、1冊の本になるだろう。その本は、

現代の読者にも有益な情報をたくさん与える

だろう。しかし僕は、著作家ではないし、

それらを書こうと言う思いもなくなった。

ここでは、様々な体験を超える究極の宝物を

知覚した体験を書こう。それが読者にとって

究極的な宝だと思われるなら、書く者にも幸い

である。

 

べラミでは、毎晩の各階ごとの朝礼があった。

伝達事項があり、週刊売り上げナンバーワン

ホステスの表彰もあった。

ある夜の朝礼にて、黒服姿のボーイたちは、

両腕を後ろに組み、直立していたそのとき、

実に驚くべきものがやって来たのだ!それは、

いったい何かというなら、自分の心の内界に

突如として、外部から侵入するカラーの立体

動画があり、素早い動きある映像は、色彩、

音声、温度や皮膚感覚さえも伴う生きた画像

であった!

その映像の内容は、自分が体験したことのない

ものであったけれど、心の内界では、すでに

体験しているのだという驚き!

べラミと言うクラブの朝礼を受けている自分、

それとは異質な世界を体験しながら同一なる

自分が同時に異なる世界を観ると言う驚くべき

奇異な体験であった。

その意味することは、詳しく書く必要がある

だろう。

自分の心の中に生じたカラーの立体動画は、自分の

中から生じたものでは無く、自分の外部からやって

きたものだという明晰な知覚があった。それが想念と

呼ばれるエネルギーだということも分かった。

その映像は、おそらくマイクロセコンドの速さである

から、普通の意識状態では、知覚することが出来ず、

もしも知覚していたとしても記憶に残らないだろう。

このような想念は、誰の心の中にも介入しているが、

誰もが気づかないだけなのだ。ただ想念があると知る

だけである。想念が感覚や音を伴うカラーの動画である

ことを人は、気づくことが出来ない。

 

世間には、瞑想とかヨーガを行う人もいるけれど、

その本当の目的は、真実の自己を知覚する事に在り、

そのために自己ではない心のうごめきの観察を必要と

するのだ。自分では無い心の動きの観察では、想念の

動きを画像として観ることだ。この観察が為されると、

心の動きは止まる。思考は消え去るのだ。

しかし、普通の人の場合は、心の観察が難しい。

セミナーで、教えられたように自分の内側を観れども、

心の中は、真っ暗闇だから何も観えませんよ、と人は

言う。日常の意識状態の中でも、様々な想念が実に多く

去来しているが、それも観えないのだ。観えないから

外来の想念が生じることの重要性を理解しない。

想念と言うエネルギーの画像として動き、その性質は、

観ることにより、理解することが出来る。この観察が

出来たならば、想念は逃げ去り、心は真空状態になり、

大きなサプライズが自然に生じるのだ。そこに生じる

サプライズは、あなたをゴールへ連れてゆく。

 

ボーイをやっていた時、普段は不可知なる想念を、

明晰なるカラーの動画として観たけれど、それらの

想念を観察し続けるなら、想念が消え去るという

知識が欠落していた。というか知らなかったのだ。

そしてまた人にゴールがあると言う知識も無かった。

それから後、想念を画像として観たのは、26歳の

丹沢山中における瞑想時であった。

 

読者のみなさんは、この記事によって、想念を観る

ことが出来ると言う知識を得て、さらに人には、

ゴールがあると言う最終知も得たのだ。これらの

知識を「宝」と言うのだ。

 

皆さんが、自分の中に去来する想念を明確に観察

することが、一分くらい続けて出来るならば、

すぐさまゴールへ到達するための神秘なプロセスを

体験するであろう。

このように心の観察は、もし可能になりさえすれば、

物質と言うマーヤを打ち破り、ついに自己の本性を

明らかにする。それゆえ、心の観察が為されるなら、

瞑想も呼吸制御も不要であり、また難しいヨーガの

修行もやらなくていいものだ。観ることにおいて、

オームの唱和、マントラも要らないのだ。

 

このような心の観察は、時と場を選ばず、お金も

かからない。神の恩寵を期待することも必要では

ないし、いかなる宗教の、どのような教義さえも

全く不要なものだ。ただ自分の内界を観るだけで

あるから。

 

日浦が常々宗教やスピリチュアルを離れよと言う

論拠は、この心の観察を為し遂げるためには、神も

宗教も介入させる必要がまったく無いと言う事実に

基づいている。

このことの逆説的な説明では、心が空想する荒唐無稽

な神という想念、同じく荒唐無稽な概念を説く宗教を

やる限り、心は、それらの概念に縛られたままである

から、概念や想念を排除した自己を知覚することは、

決して出来ないであろうというものだ。

 

ゆえに心が空想する神を信じること、人が作る宗教を

信じることは、荒唐無稽とも言える想念に過ぎないと

皆さんは理性を使って考えなければならない。

宗教をやるのは、信仰心があるからではない。単なる

無知ゆえのことである。

なぜなら、究極へ到達した教祖はどの教団にも居ない

からだ。

 

ボーイの話しから脱線したけれど、皆さんは自己の

本性と言う究極へ到達するための、ひとつの究極の

修練方法を無料にてここで、学んだのだということを

決して忘れないように。