青春時代

ラーラ沖縄の記事に青春時代の歌の一説が書いてある
のを読み、日浦の青春時代の一コマを想いだした。
その一部を語ろう。

二ューヨーク定住の夢
若き年頃、日浦の将来の夢は、ニューヨークへ
定住して、建築を学び、売れっ子アーキテクト・
デザイナーになろうとしていた19歳の頃は、
京都の学生であり、親から仕送りをしてもらって
いた。
しかしなぜ、ニューヨークに行きたかったのか?
日本は閉鎖的な社会であり、既知の権威が幅を
利かせ、学問や技術その他においおて、他人の
栄光を認めない傾向が強い。だから他者の成功を
称賛するニューヨークが活動の場だと考えていた
からだ。親が反対しようと、絶対ニューヨークへ
行くと決めていた。

ある日、口座を見ると仕送りが無かった。実家に
電話をすれども、誰も出ないのだ。なにか不祥事が
起こったと思った。

数日後、田舎の同級生から速達便が届いた。
その手紙には、バイクに乗った父と母は、砂利を
満載したダンプカーに跳ね飛ばされて入院して
いるとあった。
父と母の後方を走っていた車の目撃者の話では、
ダンプカーは逃げたと言う。いわゆるひき逃げ。
それゆえに賠償金も見舞金も出ないのだ。

急いで実家へ帰り、医者に聞いたら、二人とも
生きていたこと自体がすでに奇跡であり、元の
体に戻ることは在り得ないと言い、早々に両親を
引き取れと言った。ハイ、引き取りますと言える
わけもない。

酸素マスクをした意識不明の父と母を見て、
自分の人生が真っ暗だと思わず号泣した日浦だ。
両親が再起不能になったという悲しみもあったが、
ニューヨークへ定住する自分の夢が破壊されたと
いう激しい悲しみと怒りとがあったのだ。なぜ、
激しい怒りが生まれたのかというならば、誰かの
悪意から生じた意図的な事故だと知覚していた
からだ。


この頃は、ヒーリングするという知識も無かった。
しかし、両親への奇跡は生まれたのだ。どのような
奇跡が、どう生じたのか?
日浦が京都へ戻って後、十カ所以上の骨折、内臓の
破裂などの損傷は、瞬く間に回復し、いぶかしがる
医師の思惑を超えて、両親は歩いて退院したと言う。
このような話しは、読者も信じないだろう。だが
本当の話しなのだ。

ホームレス体験
両親が退院したその知らせを聞くより前、学費も
下宿代も払えないことを勝手に思い込み、すぐ
さま下宿を出た。しかし、行く当ては無いのだ。
事実上の宿無し路上生活者になるのだ。ホーム
レス体験は後ほど語ろう。記事「学生乞食」で。

当時、両親がずっと寝たきりの全身不随のままで
あったならば、長男の日浦も介護人のままだった
に違いないのだ。そうであるなら、現在の日浦も
無かったかも知れない。
いま思うに、激しく号泣したことがヒーリングの
治療であったと知る。だがしかし号泣することが
ヒーリングだと言うことではない。別の説明が
必要であるが、それは省く。

両親の事故からずっと後の26歳の時、高橋信次の
会社へ勤務した。いわば捕獲されたのだ。
驚くことに、両親が再起不能の事故にあったことを
信次は知っていたのだ。そしてまた、恐ろしくも
実に腹立たしい驚きの言葉を発した信次であった。

高橋信次:「あなたをニューヨークへ行かせない
ために、そしてまた、私の会社へ来るようにと、
私が両親の交通事故事故を起こしたのです」と。
「再起不能にしたのに、何故か退院しましたが」
そう言った。まさに鬼畜の発言だと思った。
信次自身がそうした力を持っていたわけではない。
背後にいた霊的なものだ。

記事「学生乞食」の体験、若き日のホーㇺレス体験
から生じた諸々の展開は、厳しく切なくもあり、
思いがけない面白さも生じるものだと教えてくれた。
そこから自分の新たな道は開かれる。
それゆえラーラ沖縄へのアドヴァイスにある
「将来、フリーターになってもいいが、親は金銭的
援助はしないので、自分の生活費は自分で稼ぐ
ようにしろよ」と言わせしめたのは、親の愛である。
日浦にもその体験があり、フリーターだとかプー
太郎体験は、自立する力が得られる貴重なモノだ。
親とか他者が語る安全と思えるレールを走る前に、
一度は脱線し、転覆する体験を持つとき、人は強く
なれる。心や意思の弱き者は、挫折の罠にはまる
リスクがある。

高校生か、大学時代において、もしもアウト
サイダーとして、過ごすことが可能であれば、
それが貴重な体験になるのだ。そういう感性が
あればこそ、路上生活者になることの恐れは
無かった。単なる若さの至りとも言えるが。