糠に釘の譬え

某受講生への返信メール
 
8月セミナー冒頭で、「一心不乱」「糠に釘」の
譬えを話しましたね。人は何度も何度も繰り返し、
また繰り返して教えないと分からない生き物、、、
それが「糠に釘」の喩えです。
 
今回の「一心不乱」の言葉は、新しいものと受け
止めた受講生さんがいて、帰宅後、昨年の講義録を
聞いたら「一心不乱」が語れていて、驚いたという
メールがきました。
 
つまり、一年前のセミナーで聞いた「一心不乱を
セミナー後に忘れ、お茶会に興じて違うか(笑)
それを一年も忘れ続けていたということ。人は、
聞いたことを忘れる生き物であり、いつも心は
古いまま歳だけ取る。ヤダねー
 
あるセミナーでは、受講生さんから質問があり
ました。その質問は、なんと一時間前に日浦が
語ったものです。そのようなことは、多くの人に
起こり得るのです。
糠に釘、暖簾に腕押し、馬耳東風・・・(笑)
 
この例えは「真理の教えが釘、人の心が糠」です。
 
この世は、マーヤであるからこそ、この世に真実は
ありません。真実でない様々な知識、体験、嘘など、
嘘と知らずに詰め込んだ知識は、50年ものとか60年
物の古い糠漬けのよう。
ワインなら値打ちものだけど、ぬか漬けの50年物は
マズくて食えないでしょう。あなたは、美味しいと
言って食べますかね?また人にも勧めますかね?
僕なら食べませんよ(笑)
 
人は日々、新しい知識を取り込み、新しいことを
体験し、先端文明の中に生きていると思っている
けれど、大きな間違いです。なぜなら、この世は
まぼろしであり、まぼろしから成る50年物の古い
心の中は古い知識しかなく、悲しみ憎しみ怒りなど
ネガティブな破壊的な記憶さえあるのです。
それらが外界と反応して想いが生じます。
そうだ真実が真実として、マインドに浸透しない
のです。また、ウソから成るスピリチュアル知識
も沢山あるでしょう。その知識が新しさと真実を
否定するのです。或いは、捻じ曲げる、曲解する、
勝手な解釈が生まれるなど。
それゆえセミナー後半で、記憶の忘却の重要性を
教えました。それは、心と言う糠を捨てるという
意味です。
え~!?わたしゃ聞いてませんが?というような
人は居ないよね?ね?
 
心は、新しいことを聞いても、すぐさま50年物の
古い糠漬けに同化してしまうのです。同化とは、
記憶に反応する或る種の観念が生じる現象です。
すると、新しい知識もすぐさま古くなるのです。
それを「古い糠漬けの心」と譬えました。
 
50年物の糠漬けなら、洗っても綺麗になりません。
そして、古いマインドは、真理の釘がなかなか
固定しません。どうしたら、釘が固定されるのか。
どうしたら、心の古さを消せるのか。考えましょう。
ワタシャ、考えても分からんよという想念も無視
して、時々、講義録を聞き直すといいでしょう。
 
人は、活字を見るとき、目が見ているのではなく、
マインドが文字を見ているのであって、話しを聞く
ときもまた、耳が聞いているのではなく、心が聞い
ているのです。
考えること、思うこと、体験すること、空想する
総ての記憶と忘却の担当責任者は心であり、心の
性質は、かなり無責任です。
なぜなら、記憶があり、同時に忘却があるからです。
記憶すべき重要さを記憶せず、記憶などしなくても
いいことをたくさん記憶して、記憶してはならない
ことをいつまでも覚えていたりする。
早く忘れなければならないことも長年しっかりと
覚えていたりする。
わたしゃ~記憶力がいいよという人は、無駄な
記憶をいつまでも捨てきれない人。
人の本性は、どんな局面においても無想だと記憶
しましょう。これを忘却しないことです。
 
記憶は、無限量の古い過去(真実性の無いもの)を
蓄積したカルマです。生きることに記憶は必要では
あるけれど、記憶と言う過去が、自分の想いとして
現れ、それが自分の本性を押し殺しているのです。
そして、「自分は惨めだ」「ダメ人間だ」とウソを
思うのです。
 
あなたの真実は、
至高の真我だ。
その真実を想いだそう。
 
無知であり、無責任なマインドを使わず、見たり
聞いたりするならば、記憶も忘却も生じません。
もし記憶する素子を消し去れば、なにをやっても
カルマにならず、カルマが無ければ、何にも束縛
されず、自由だと言うこと。
だから人は、ノンマインドがベスト。さよなら
マインド、古き糠漬け君。
 
しばし記事の書き込みを休みます。真理の釘を
皆さんが固定するようになったなら、また書き
ましょう。