心の正体

ネット上に生息する自称のスピ
リーダー、
ノンデュアリティの
狂言者、サットサンの曲解者が
いるようであるが、その彼らは、
あまりにも知能が低くて、大きな
ウソを垂れ流している。
私の解体という名の「エネルギーが源」はウソ。
「自分は、エネルギーそのもの」は大きなウソ。
「自分はエネルギーそのものだから、どこにも
たどり着くことは無い。」という恥ずべきウソを
暴こう。 人の本性は、エネルギーと生命を超えた
存在なのだ。

 

『無断転載・流用を禁ず』

知覚と認識

晴れ渡った日中、空は青く見え、夕暮れは朱色に

見えて夜は暗闇に見える。この変化が起こるのは、

気象の変化とか時間経過というよりも視覚能力に

限界があるからだ。それゆえ空が青いというのは

知覚と認識が生む錯覚である。錯覚が生じるのは、

視覚と思考によることは明らかだ。

転じて、幻の画像である、この物質世界の現れを

実在の世界だと知覚し、そのように認識するのは、

視覚力と思考能力に限界があるからに他ならない。

それゆえに感覚と思考とに依存する人は、誰もが

大きな錯覚をしているのだ。どのように錯覚して

いるのかというならば、人の身体に五感と五体が

あるが如く、あなたに心と言う機能や性質がある

わけではない。心は存在しない幻である。つまり

心、マインドがまぼろし・マーヤなのだ。これを

知らず世間では、心が大切だなどと言うのである。 

 

存在性を持たない「幻の心」が生み出す幻の力は、

存在しない心を存在するものと信じさせる。心を

形成する思考や想いは、実のところ外来のもので

あり、あなた自身の想いや思考ではない。しかし

人はみな、思考や想いが自分のものと勘違いして

いる。人はみな、ぼろしの心を使うから苦しみが

生じているのだ。

 

この勘違いと同じく、身体もあなた自身ではない

けれど、あなたは、「わたしは生まれた人間です」

という。このような大きな間違いも視覚と思考能力に

限界があるからに他ならない。

なぜか。

人の目の可視領域は、ごく僅かであるという科学的

説明があるが、それを知っても「わたしは生まれた」

「わたしは生きている」という思いの間違いは起こる。

なぜなら身体と言う物質は、視覚が生む幻なのだから。

事実、あなた(身体という物質)は生まれたとしても、

あなた自身は、身体ではないという意味である。

同じく、この世界(物質)もまたあなたに必要がない

幻なのだ。そのことを誰もが気づかない。

誰もが気づかないのは、まぼろしの力が働いている

からである。

 

なにゆえ幻か

生きて活動する人(物質)が実のところ死体だと知った

のは、5歳の時だ。また人は死んだように見間違えるが、

人の本質は永遠に死なない存在(非物質なるもの)だと

知ったのは、小学一年生の時だ。この子供は人の身体

(物質)に生命が無いという事実を見たのだ。つまり

身体(物質)と生命(エネルギー)は、別物だという

気づきがあったのだ。その子供はまた、自分の過去世を

想いだし、人の心を映像として見ることができたので、

森羅万象の背後に不可視な真理があると確信していた。

人の目には不可視な真理が姿形として現れた物質界の

森羅万象は、人の体を含めて幻だと確信していた。

だから自然を眺めて育った。しかし、自然はなにも

答えてくれず、それを深く考えたり、理解できる年齢

では無かった。

 

もし諸現象を精密に観察するならば、それが知覚の

仕方、認識の仕方によるものであるが、知覚と認識

それ自体は、諸々の錯覚を生むものであるが、小さな

錯覚を気づく人は稀だ。人は日常生活においての思い

違いや勘違いが多々あることを認めるものの、錯覚が

生じる訳を考えない。錯覚を起こす原因を考えること

もしない。それゆえ錯覚による「まぼろしの人生」に

何の意味があるかとは考えない。この世に何の意味が

あるかとも考えない。わたしは誰かと問いもしない。

そもそも錯覚していることを人は気づかないのだ。

 

どのように錯覚するのか。

例えば、映画を観るときに、あなたは観客席に座り、

ポップコーンでも食べながら、平面状のスクリーンに

投影される画像を観る。スクリーンに映るものが実態

のない非実在の単なる画像だと知りつつ、その画像を

見る人は、泣いたり笑ったり、ハラハラドキドキしたり

もする。それは、人の意識が画像と同一化するという

不思議からだという説明は、それが感情移入と呼ばれる

ものであるが、それらを皆さんも経験するだろう。

ここでの説明は、あなたは見たものに幻惑されるという

単純な勘違いを指摘しているのだ。

もっと正確に言うならば、人の目は、存在するものを

存在しないと思わせる「まぼろしを見る機能」である。

 

心と身体がまぼろしであるという意味が理解できない

場合でも、その視点から考えるならば、人の肉眼が見る

モノはみなまぼろしなのだということになるのだ。

なぜなら、人の視力は、太陽光や人工的照明の光りを

受けた物体の反射光を視覚視野に取り込み、それらを

電気的信号に変え、脳へ伝達して、暗闇の脳内には、

明るい画像が結ばれるという医学的説明がある。

この説明がもし事実であるなら、人は、虚像を見て

いると言うことになるだろう。すると、見ること、

見たという視覚的な認識もまぼろしであることになる

だろう。眠りの中で見る夢は、まさにそれなのだ。

しかし人は、わたしは、この目で確かに見たと言い、

事実を直視したから本当だ!などとも言う。

このことを医学的な説明に依らず、深く考えたらいい。

そうすれば、人の目は事実を見たつもりが、実は虚像を

見ているのだと分かるだろう。これがまぼろしの力の

ひとつだ。五感は、大脳の出先機関であり、まぼろしを

形成する機能なのだ。

 

それの説明が分かるなら、次のことも分かるだろうか。

あなたは、現実と呼ばれるこの世界を見て、様々な

欺きを毎日まいにち体験しているにも関わらず、それを

知らないという驚きの事実を。そして、あなたは人では

無いと言うのに、「わたしは人だ」という基本的な欺き、

錯覚があることを。このような問いを持ったのが5歳児

の日浦であった。

 

生じた欺き

人は、五感と言う感覚器官を持っている。感覚器官と

心を通して、この世界を知覚しているという事実。

それゆえ、この感覚が無ければ、心の働きが無ければ、

この世界を見ないだろう。視覚はまぼろしを見るものと

説明した通り。つまり感覚と思考が感覚のある世界を

出現させている。それを人は知らない。人が知らない

からこそ、この世は幻なのだと我はいう。

このことは、心理学者や脳学者も知らないだろう。

彼らとて、自分は身体だとか、心は自分だ、この世界は

実在だと欺かれているからだ。政治家、科学者、宗教家

も感覚と思考に欺かれている。このことが、「この世は

ウソから成る」という説明のひとつである。

 

まぼろしを生み出す人の感覚と思考とが作り出す映像の

世界は、感覚を伴う三次元のポログラムの様なものだ。

つまり世界はまぼろしなのだ。そうとは誰も気づかない。

画像は変化を伴うから面白い。スリルとサスペンスに

興奮し、快楽と苦痛も投影される世界は、何でもありの

様相を作りだす。

こようなの当たり前と思える事柄の中には、まぼろしを

見てしまう原因が潜んでいる。その原因が知られるなら、

まぼろしを暴く方法も見い出せる可能性があるのだ。

転じて、人の体(物質)もまた微細に振動する霊妙な

エネルギーそれ自体であり、決して静止した個体物では

在りない。という事実を観たのが5歳の時であった。

 

幻影の基礎

そこに画像(物質)があるのは、画像(物質)を投影

する原因・源があるからだと思わなければならない。

映画なら、光りを伴う投影機とフィルムが原因の源で

あり、その源から投影される対象のスクリーンに画像が

あるように、現れの物質世界は、エネルギーの振動が

凝固した形であり、それが画像(物質)であり、この

世なのだ。

すなわち物質性の森羅万象を映し出す根源の光り、

ネガ的な情報と、投影するエネルギーを放つ源がある

からこそ、この世界が現れる、と知る必要がある。

それ故にすべての物質性は、投影された画像なのだ。

この世が画像だと言う根拠の一つは、

例えば、物質原子は千分の一秒間に数千回もの振動を

持つと物理学は言う。そのような無限時の振動を生む

ものはなにか?原子の無限機関の振動を生み出す電源

らしきものは、いったい何処にあるのか?まだ科学は

知らないのだ。電気の性質や引力さえも分からないと

言う現代の科学者たち。

なぜ、様々な形態を持つそのような個々の固有形態を

不可知なるエネルギーが維持しているのか?またエネ

ルギーは不滅だと言う物理学の意味は何か?それを誰も

知らない。物理学者も知らないだろう。

物質の形は、不可視なる潜在性を現すエネルギーの

振動それ自体なのだ。それ(エネルギーの振動)自体は

物質ではありえないと言う意味でありながら、微細な

振動のエネルギーが個体的物質に見えると言う感覚と

思考の欺きが生じているのである。

このことは霊眼を通して観るならば、すべての物質は、

振動を持つエネルギーであり、色彩を持つ振動であり、

固さをもつ物質ではないという事実をハッキリと認識

するのだ。だから、この世は事実上のまぼろしなのだ。

 

セミナーにおいて、何度も例えた蛍光灯の話しがある。

関東では、一秒間に50回の点滅を繰り返し、関西では

60回だろう。これらを50Hz・60Hz(ヘルツ)と

呼ぶが、一秒間50回とか60回の点滅が見えないのは、

視覚の限界があるからだ。事実は、50回・60回もの

滅すなわち暗闇があるのだ。

蛍光灯の点滅に限らず、すべての物質は、微細に振動

しているけれど、それが静止した個体物に見えるのは、

視覚に限界があるからだという単純な説明である。

この世には、運動が静止した物質は存在しないという

物理学から見るならば、物体が静止して観えることが

欺きであるという単純な説明なのだ。あなたは、物質

(身体)を投影する源を知らなければならないのだ。

その源、根源というところが、あなたの本性だと言う

説明なのだ。人の本性は、エネルギーと生命とを超えた

存在なのだ。

源とは何か。

エネルギーの振動(物質)そしてまた、エネルギーは

動いて変化しつつ、また仕事をする働きであるから、

それが源ではない。例えば、電気のエネルギーを生み

出すのは、発電所であるから、そこがエネルギーを生み

出す源なのか。いいや違う。発電所は、水力、火力、

原子力という物質の働きを用いる場所であり、それは

核分裂とか水力によるタービンの回転という物質的な

仕事をする場であり、そこが究極の源では在りえない。

では電力会社が持ちいる燃料は、何から創られたのか。

やはりエネルギーの凝縮状態なのだ。その源は学者も

知らない。記事「錬金術」を参照。

同じように見るならば、この広大な宇宙と言う物質、

それを生成し、破壊しつつ維持する莫大なる運動・熱

エネルギーは、働きであり、動きであり、それは常に

変化を伴うので、究極の原因では在りえない。

だから人は究極の根源の源は、いったい何かと問わ

なければならない。それは、物理学者たちが探求する

ところの「ビッグバン」と同じものだろう。その源、

根源の原因が存在しなければ、宇宙もエネルギーも

生命も生じないだろう。

そう考えるからこそ、あらゆる物質性の根源が探求

されているのだ。このような物理学的な探求は、もし

逆説的にとらえるなら、すべての物質は、存在が不確

かなものだと言う疑いから生じているのである。

この探求の果ては非物資なる世界であり、唯一と呼ば

れる不可知な実在の世界だと科学的結論を下す時代が

来るだろう。

希代の天才科学者ニコラ・テスラが残した言葉には、

「科学が、非物質的な現象の解明に挑んだなら、10年

間で、今までの人類史全てをはるかに凌駕する進歩を

遂げるだろう」という意味を理解しなければばらない。 

身体は、霊妙なエネルギーの、いわば固有振動数を持つ

物質的状態であり、心とは、考えたり、悩んだりして、

つねに変化する働きであるから、根源では在りえない。

しからば心と身体を投影する源、根源は何か。

 

現れた投影(物質)を逆に見るならば、すべての

物質性がその源に収束された根源の世界こそは、

唯一と呼ばれる万物の永遠なる存在基盤だ。そこが

人の本性と言われるゆえん。

例えた映画の画像の中にいるあなたは、画像と自己

同一化した、まぼろしの人であり、観客席にいるのが

本当のあなただ。

しかし、あなたに観えず動かず、思考さえもしない

観客席に存在する自己に誰も気づけないのだ。

人が気づくことの出来るのは、まぼろしの身体と

心でしかない。そして、まぼろしの画像であるこの

社会だ。この記事は、すべてが「まぼろし」であると

説明しているのだが、書く側の文書能力も限界がある

ことも分かって欲しい。読者の思考も限界がある。

 

なぜ間違いが生じるか

あなたは身体と言う人であると思っているが本性は

人ではない。このことを知ることは不可能であるが、

誰もが食説体験することが出来るのだ。

人の本性は、物質的身体が無く、名も無く、いつも

無想であり、清らかであり、知識と時間と空間の源に

あり、何の欲望も恐怖も無く、自我意識さえも無い。

そうでありながら、何かの対象を持たず意識的に選択

することもなく、気づきを気づく存在なのだ。だから

思考も想念も要らない。いや、思考は排除しなければ

ならない。

 

人はなぜ、考えるのか

無限の純粋意識のあなたは、いつも無想だ。無想の

あなたの中に突如として考えるという思考が生じ、

それから心が生じた。心は意識の中に生じた異物の

ようなもので、悪意のあるものであり、純粋意識の

あなたを欺くものだ。「身体がわたしだ」と。

心が宇宙という潜在性の核を通して宇宙を投影する。

投影とはエネルギーの振動による物質化現象を言う。

なんであれ物質は、経年変化を起こし、やがて崩壊

する宿命にある。この変化と崩壊の相は永遠の実在

と異なるものだ。

だから、この世は実在だと思うことが大きな勘違いだ

と言うことだ。この世というマーヤも実在だと言える

のは、まぼろしの正体を観た人に限られる。

 

意識の虚空に投影した身体と同一化したあなたは、

無想である本性を完璧に忘れ去り「私は人間だ」と

言い、時に人権を主張しつつも、他の人権を壊した

りもする。そして、いつも心は、様々なたわごとを

並べたてる。推論と言う名の空想をする。

 

心のまぼろしの力

心のたわごととは、「存在するものを存在しない」

言うウソを主張し、「存在しないものを存在する」

嘯くことである。「私は身体であり、心はわたしだ」

と言うのが心の嘯くウソである。

なぜそうなるのか。

感覚と思考が働くそこには、「不可能を可能にする

心のまぼろしの力」が働くからだ。心そのものが、

存在しないまぼろしなのだ。この説明は長くなるし、

説明しても誰も理解できないから省こう。

 

存在しないものとは、永遠の実在ではないところの

物質宇宙そのものであり、あなたの身心を含んでいる。

同様に生命として現れる形ある生類でさえ、非実在の

潜在性に過ぎないが、それが現に存在していると人は

錯覚している。このような錯覚を生むのは、心であり

感覚であり、思考である。ゆえに心は無知であるから、

あれはなんだ?それはどういうことか?という疑問が

連続する。連続する疑問に終わりはない。思い違いや

疑い、興味も嫌悪も心が生み出す幻想なのだ。

 

心は存在しない「幻・マーヤ」それ自体だ。

だから、幻の心を破壊しなければならない。

 

宇宙もまぼろしの相

「唯一」と言われる不可思議な霊的意識的世界は、

何の物質性も存在しない。変化の動きさえもない。

そこは非物質の無限なる意識の虚空のようなものだ。

虚空と呼ばれるそこには、何もなく、しかしながら、

宇宙に現されるすべてが非物質の潜在性として在る。

理由は、創造される前に宇宙は存在せず、宇宙が

消滅した後、宇宙は存在しないと言うこと。

つまり、唯一の実在の中では、物質的創造も破壊も

生じない。もし創造と破壊とが生じるものならば、

唯一といい、真我ともいう永遠なる実在の世界は、

変化し続けて混乱をし、いつか破壊されるだろう。

そのような変化の状態は、永遠の実在とならない。

そうであるにもかかわらず、わたしが存在し、また

宇宙が存在すると言うのは、まぼろしの心と言う

思考の産物に過ぎない。

宇宙は、意識の虚空に心が想像した画像の様なもの

であり、永遠の実在とは言えないものだ。それゆえ、

この世は、幻とみなされなければならない。

心は、無限の意識という強大なるエネルギーの中に

生じた異物としての自我であるから、思いとか思考、

感情という心の制御、または瞑想だとか、その消滅は

決して簡単ではないが、消し去らなければ実在を知覚

することが出来ない。自我のあなたは、無限意識の

強大な力にあがらうことは無理なのだ。たかが思い、

されど御し難きは思いなり。

このことを知識として知っておかねばならない。

 

繰り返そう

あなたは人ではなく、身体と心でもなく、脳でも

感覚器官でもない。だから脳が考えるというもの

では在りえない。このことを人は理解できない。

構造的に理解できない仕組みが隠されている。

隠されているという意味は、思考や感覚で捉える

ことができない性質の世界と言う「心のまぼろし

の力」と言われる所以だ。

つまり、心があると思うことそれ自体が、幻に

欺かれているという意味である。このまぼろしは、

理性でも知性でも思考でも見破ることが出来ない。

何となれば、理性、知性、思考は、心の働きである

からだ。

あなたは、自分が仕掛けた心のまぼろしの罠、

マジックに欺かれているのであって、まぼろしの

心を持つあなたは、宇宙でも、一番のマジシャンだ

という説明になる。

 

なぜ心が生じたのか

唯一という真我の中に、突如、ある種の振動が生じた。

その理由を過去の聖者たちは理解したかも知れないが、

説明することが困難なのだ。

ある種の振動からベールの様な皮膜が出現し、皮膜は

潜在性(非物質の記憶)を映し出すという魔力をもち、

主体と客体という両極をつくり出し、「私」と「他人」

という区別観念が生じる。それから、昼と夜、男と女、

愚か者と賢いもの、貧しいもの富めるものという切りの

ない二元性や多様性が生まれ出る。これらすべては、

心が生み出すエントロピーである。エントロピーとは、

まぼろしの力が生むまぼろしの世界だ。

 

永遠に変化しない唯一の実在には存在しない二元性と

多様性を認めるなら、それがこの世であるが、あなたは

欺かれて、束縛されたままだ。

唯一と言う一元性を破壊する多様性と二元性を否定せよ。

しかし、これらの否定は、簡単ではない。

無限の純粋意識の虚空(生類の本性)に投影された

ベールに投影される宇宙は画像であり、それは実在では

ないから、この世は、幻(マーヤ)とみなされる。

ベールは無限の意識の中に存在する一つの概念、想念で

ある。心の働きは概念や想念から生まれる。このような

幻の心は自我と呼ばれ、あらゆる類の悪しき想念を寄せ

集め、その想念と思考に人は支配されている。それ故に

心、思考がある人はみな、マインドコントロールされて

いる。想念や思考のすべては、あなたのものでは無い。

だから心は、破壊されなければならない。

 

心を破壊するには、心が生み出す概念や想念の助けを

借りて、心が想像する概念や想念を破壊させることに

より、心は、消え去らなければならない。

魂と呼ばれる状態は、あなたの表面に加えられたベール、

皮膜のようなものがある状態であり、皮膜があるから

自分という個体的な思いが生じ、主体と客体、二元性、

多様性と言う幻を映し込むのである。

まぼろしの心が想像した幻の世界を実在だと勘違いした

まま、心に束縛された不自由な生き方をしている人々。

ベールに包まれた魂は、破壊されなければならない。

破壊が生じたとき、自分は個体性を持たない無限なる

純粋意識だと知る。純粋意識のあなたは、一度たりとも

生まれたことも無く、死んだことも無い永遠なるものだ

と知る。「わたしは生まれた」というのは、まぼろしの

心が主張するところの大きなウソなのだ。

 

転生輪廻は、まぼろし

輪廻転生は、魂が体験するものではなく、心が投影する

画像だと知るべし。それを知るまであなたは、幻の心身

と同一化してしまい、必要のない苦楽の転生を余儀なく

されている。これが知識として得られたら、転生輪廻を

やめればいいと分かるだろう。

物理学がいう、その働きを認めるが、その存在性を確定

できないという素粒子説がある。それはどういうことか。

意識の虚空に生じた心は、三種類の素粒子のサットワ、

タスマ、ラジャラスから構成され、それは混合の比率が

変化するものであるから、心がころころと変わり続け、

決して安定せず、つかみどころがなく、時に自分が分か

らないといい、時にウソもつき、人を傷つけもする。

このように心は、計測不可能な素粒子の性質を露わに

している。

心は変化そのものであり、実在では在りえない。

 

どうしたらいいか

まぼろしの思考を超えるなら、心を破壊するなら、

それを直接体験することが出来る。それとは本性の

自己の知覚である。なぜ、直接体験が出来るのか。

あなたは今でさえ、唯一の実在に在るからだ。

このことを知識として知ったなら、やるべきことが

明らかになるだろう。つまり世界世は実在でなく、

まぼろしだと観念し、自分は身体だ心だと思うのが

勘違いだと観念し、世界についての常識的な考えを

持たないほうがいい。世界は投影された画像である

と観念し、すべての現れを疑うがいい。

空が青いと思う人は、いく百万人もいると同じく

「わたしは悩み苦しんでいる」と考える人もいて、

「この世は楽しい」と思う人も大勢いる。人が何を

思おうと知覚と認識の間違いだ。

あなたは無私・無欲・無想である。思うから

生む。心自体がまぼろしだ。だから心は、

破壊されなければならない。

 

瞑想によるなら、「すべては絶対なる唯一だ」と

いう揺るぎない確信に至ることによって「私は唯一

の存在だ」と意識することが可能になる。

瞑想の目的は、自己を知覚することであり、途上の

中目的は、まぼろしの心の消滅である。

知識として知るべきは、人が空想する創造神と

呼ばれる存在から、物質原子ひとつにいたるまで、

すべては唯一の真我に他ならない。だがそれらは

非実在の潜在性(マーヤ)であるから、あなたは、

それらに依存しない存在である。

関心を持つから感覚と思考に欺かれる。そこには、

心と呼ばれる別のものが存在するわけではない。

無限意識の中に生じた一つの想念から、考えると

いう心の働きが突発的に生まれる。心の登場こそ、

本性の自己を忘却させて、望まない転生と不幸を

生み出す。心は、その働きを消滅させることで、

本来の自己が知覚される。

あなたは自分が作りだした幻の中に生きている。

仕事、家庭、恋愛、失恋、離婚なども、まぼろしが

作りだした物語り。

人生は夢のようだと言う人がいるが、そのような

例え話ではなく、まぼろしという夢の世界を現実

だと錯覚している人々の人生ドラマは、ある意味、

面白いマジックショーであるが、多くは、惨めな

悲嘆な生き方だ。

心を消し去れば、マジックショーは終わる。

 

自分を心身に束縛したのは、神でも悪魔でもなく、

自分の知覚認識の間違い。自分が作りだした罠に

自分から嵌ったままだ。それを止めればいいのだ。

それを止める方法は、様々なアプローチがあるが、

日常的な間違いを去ればいいのだ。例えば「先祖が

浮かばれないから自分が不幸だ」と教える宗教を

信じたり、人は神の子だと言う低次な宗教を信じ

たり、宇宙人がどうのこうの、チャクラがどうだ

こうだと言ったり、また、テレビのお笑い番組を

見て、アハハと言っている限り、そして、なんで

あれ仕事や研究に没頭している限り、それら全部が

幻の心の動きであるから、束縛が解かれることは

無いだろう。

新聞やテレビ、週刊誌を見るなと言うことではなく、

自己の本性を忘却した生き方、つまり、この世の享楽

に流される生き方は、そのままカルマに蓄積されて、

自分が蓄積したカルマは、自分をいつまでも束縛し

続ける。だから、あなたは自分を束縛しているのだ

と知らなければならない。

社会や他人のせいにして、何の解決があり得るのか。

世俗の物事、政治や経済、科学や宗教など、あなたを

束縛するが、あなたの魂を解放しはしない。

これは、読者を脅しているのではない。永遠の意味と

それの真実を語っているのだ。

 

心が大切だと言う世間の人たちは、

幻の心自体が滅びることなく存続
したい
からこそ「心が大切だ」と
心が言うのだ。それに騙されては
いけない。

 

人生は、目覚めた状態の夢だ。
あなたは夢見る人。他者は夢の
エキストラ。

 

読者の皆さん、「至高なる自己を知覚する」ために、

この記事を繰り返し読むと言い。なんどもなんども。

そして、何か月もかけて読むと言い。

その意味することは、他のことに無関心であれと言う

ことだ。自己を知覚すること以外の物事には、興味を

持ってはいけない。

 

あなたは人(物質)では無く、至高なる

唯一の実在(非物質)だと言うことを

忘れないように。