知覚・認識の間違い

ラーラ沖縄の「御質問への回答1.2」の補足として、

先に書いた「知覚・認識の間違い」を再掲する。

この記事を読み、意味を理解した人であれば、

ラーラ沖縄へ宛てた批判は、的外れだと自覚

できるはずである。

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世間には、様々な情報が拡散しているけれど、

それら情報には、嘘と偽りが多くある。ウソが

広まる原因・要因は、多々あるけれど根源的な

間違い、勘違いの素は、記事「わたしと言う嘘」

の中でも述べた通り、ただ一つの理由である知覚・

認識の勘違いがそれである。

つまり、わたしという自己認識が自我であり、

エゴであり、それが本性の自己を偽る間違いの素

なのだ。もっとハッキリ言うならば、わたしと言う

自己認識の自我は、これをエゴともいい、本性の

自己を殺すものであるという事実。

この古くて新しい指摘の意味は、人の本性において、

悪人は誰もいないし、愚か者もいないし、不幸な

人も誰もいないという深い教えを含んでいる。

 

さて、読者が知るべき重要な知識は、勘違いの素、

例えば、味の素について、それを見出すなら人間の

抱える苦悩や悲しみのすべてが、一挙に消え去る、

という真実の教えが、このブログに説かれてある

という事実。

瞑想とかヨーガについて、本当の意味を書こうと

して、瞑想序論、動機、目的、各論、マントラ、

オウムの意味を綴ってきた。それらは、果たして

読者の役に立つのかな。

 

と言うのは、日浦に噛みつく人もいるからだ。

コメントやメールで。

このブログでは、人の非難もあるし、宗教批判も

ある。それは、マーヤの世界に住む人のエゴ性を

批判しているのであって、その人自体の批判では

ないということが読み取れる人、読み取れずに

勘違いする人もいる。

真実は、真実であるとし、偽りは偽りだと言う

のは、むしろ正しく、単なる批判では在りえない。

真実を真実と言わず、偽りを偽りと言えない人は、

むしろ不誠実な嘘つきではないだろうか。

翻って、批判の何が悪いと言うのだろう。

 

激しく噛みついたおばさまへ

自分の中に人に、人に噛みつき、人を非難する心が

あることを棚に上げているんだね?

時々、棚卸した方が良いかな。でも、在庫の多さに

びっくり仰天するか?

批判の心を持って、このブログを読む人、或いは、

真実を知りたいと思って、このブログを読む人あり。

そんな彼ら彼女らは、天と地の差が生まれる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

  

瞑想もヨーガも、詰まる所、勘違いの素を見出す

ことの、いわばエクササイズだと知って欲しい。

しかし、それらが目的じゃあないのだ。

知覚・認識の間違いを知るための唯ひとつのエク

ササイズ、或いは、修練と言っていいけれど、

それは、万能の秘宝なのだよ諸君。

 

一を聞いて、10を知るという諺があるけれど、

人は、10を聞いて、やっと一を知るようなもの。

ただ単に、ブログの文字を流し読みするとき、

10の教えが含まれているにも拘わらず、意味を

知覚しないなら、人生の貴重な学びは、ひとつ

として得難いものになる。

それは、自分のせいだよ。

知覚・認識の間違い。

そろそろ、このブログも終焉の時がやってくる。

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追加論説

自我とかエゴは、人の本性である真我・唯一の実在性を

殺すものであり、それゆえ本質的に邪悪なものだ。

つまり自我とかエゴは、人の本性ではなく、仮想的に

マーヤの世界に生まれる観念なのだ。自我とかエゴは

あなたでは無い。にもかかわらず、人は自我を自分だと

勘違いしている。自我を分解すれば、身体感覚と心が

自分だと言う知覚の間違いが生じている。それゆえ

それは、全的に否定されるべき諸悪の根源である。

 

しかしながら人間社会の善悪論は、エゴ性による

主張が多くあり、というより人間社会の善悪論や

道徳論は、自我、エゴの見識によるものである。

それゆえに、エゴが主張する正当性や善悪論は

全面的に間違いなのだ。

 

真理は、マーヤに束縛された人を自由にする半面、

エゴを殺す猛毒のようだと教えたように、人は

誰もが自らのエゴを殺さなければ、魂が解放される

ことは望めない。

自分が批判を受けて、他人への批判を見て、

噛みつき腹を立てるはエゴなり。

しかし、すべての人は、自我、エゴに非ず。

本性において人は誰もが唯一の実在であり、

万物の根源である真我だと繰り返し教えている。

だがエゴは非自己ゆえに、この教えを受け入れ

ようとしない。困ったものだ。