心の観察

世間では、心が大切だと言う人が大勢いて、

僕もまた昔は騙されて来た。そして心とは、

ああだこうだと言う心理学もある。

しかし、ラナママハルシさんの本を読んだ人や、

日浦のブログを読んだ人の多くは、

「心はあなたではない。身体もあなたではない」

と言う説明を聞いて、軽いショックを受けるという。

本当は、再起できないほどの大きなショックを

受けたらいいんだ。その方が理解が早まるから。

その意味では、日浦の論説は、インパクトがない

かも知れない。申し訳ないm(__)m

 

心の消滅をもたらす意味の説明は終えている。

そのメソッドは、古代から説かれているところの

「心の観察」が基本にある。心の観察が心の消滅に

至るので、それがゴールへ到達する。ゴールとは、

真我体現であり、自己解放への到達であり、解脱を

果たすことであり、究極の真理へ到達することだ。

これを理性的に考察するか、或いは、瞑想の中で

行うかの選択肢がある。そしてまた、心の観察も

下記の段階がある。

1. 心を直接観ることで心は消滅する。

2. 心の動きを観察すると心の動きが止まる。

3. 心を動かさずに居るだけ。

4. 心の根源を見出すと心は消え去る。

などである。これらに詳しい説明が要るけれど、

このように心の観察法は、瞑想もヨーガも

ヨぅガないんだよ(苦笑)

心の観察は、呼吸制御も要らないし、オウムも

マントラも必要としない。文字通りシンプル。

紫蓮さんの「何もしなくていい」の意味に近い。

 

ここでも繰り返し教えたいこと。それは、

自分の心を観察する過程において、

宗教も神も必要がない。

という真実。

なぜなら、自分の心をただ観察することにおいて、

なにかの宗教に依存することが本当に必要か

という問いが生まれる。

同じく自分の心をただ観察することにおいて、

神を求める必要がないという純粋素朴な問いが

生まれる。

この問いの意味は、自分が自分の部屋を見る

ために、いったい何の神が、いったい何の

宗教が必要か、事実は要らないだろうと言う

ことと同じだ。

部屋をパンツに置き換えてもいいんだって(笑)

心は汚れるものだ。汚れたパンツを見るのに、

あなたは宗教に依存しないだろう?

自分のパンツを見るのに神を呼ばないよね?

汚れたものは、自分が洗濯すればいいことだ。

或いは捨てるとか。真理探究とか、心の観察も

それと同じだ。

 

人がゴールへ到達することに於いて、自分が

自分の心を観ればいいだけなので、宗教も神も

必要としないのだ。

このとは、皆さん分かるよね?ね?

ではなぜ、人は神を信じるのかね?

ではなぜ、宗教なんかにはまるのかな?

 

もし、「それが信仰心だ」と答える人がいる

とするならば、その人は救いがたいあほう者と

言わなければならない。

何となれば、何の事実的根拠もなく、神や

宗教を盲目的に信じる人たちがいるのは、

或いは、ただ信じたいから信じると言う

人たちは、妄念を抱いているから、決して

神を観ない。

神とは、真我体現の自分だ。真我体現は、

自分の心を観察することにおいてのみ

実現し得るものだ。

従って、荒唐無稽な神と言う想念、また

愚かな教祖の精神的娯楽である宗教に

関心を向けて楽しんでいる間は、決して

自分の心を観察することは無いだろう。

なぜなら他者が投影する画像に魅入って

いるから、その間は、自分を観ていない。

だから、神を信じたり、ド低能な教祖の

精神的娯楽である宗教を楽しんでいる人は、

信仰心があるのではなく、妄念に生きている

人だ。妄念に生きる人は、いつまでも自己を

見失うのも無理はない。

この意味、分かるよね?ね?

分かって欲しいんだよ。ね?

この意味が分かる人は、心の観察に

向かうだろう。