祈りとは

先の神々と悪魔の記事は、もし宗教団体であれば、

決して語らないことだろう。それを知らないし、

たとえ知っていたとしても、もし、それを書いた

としたら、信者たちは、すたこらさっさと逃げ去る

からだ。

既存の宗教がやっていることは、弱者が信じるような

教団に都合のよい神を説く。或いはまた、単に教祖を

崇拝させるだけのものだ。それらは、依存心を持たせて

人を弱くする。このように神を語って人を騙すことは、

最も罪深い。

 

人の本性は、すべての存在がその形と名を捨てて、

ひとつになった非物質なる源、それがただ一つの霊的

原子(例え)にあり、それぞれの存在それ自体は、

同じ材料(原質)から作られている。

作られた、と言うのは他に言いようがないからだ。

聖書にあるように、天地を創造したのは神だと言うのは、

大きなウソであり、単なる神話であり、そこから派生する

諸々の成分(本性)は、みな同じだと言うことを隠ぺい

するものだ。

つまるところ、偉そうにする教祖も、また弱者たる信者も、

すべてが同じ材料(原質)から成り立っている。これを

明らかにしたなら、教祖や教団を主張することの意味が

なくなる。だからハッタリをかまして、「われは、仏陀の

再誕なり」とか、「何々神様の化身だ」とか言って、

同質の者を見下して騙すのだ。

騙される側も知っておかなければならないこと、それは、

教祖も自分も同じ材料から成るものであり、原質の材料に

差別はないと言うことを。

ただし、それは平等ではない。なぜなら魂の大きさや力は、

個体差が有るからだ。

 

宗教の中で、最も恐ろしい神を崇拝するものは何だろう?

それは、ユダヤ教だ。その聖典・タルムードの中には、

例えば、知らない街へ行ったら、投降を呼びかけよ、と

書かれてあり、もし投降に応じなければ、街を取り囲み、

住民を皆殺しにしろとあり、女や財宝は戦利品として持ち

帰っていい、というような恐ろしい神の言葉がある。

これって、神の名をかたる悪魔ではないか?

実は悪魔崇拝かも知れないね。ユダヤ教は。。。

この世には、恐ろしい宗教があるものだ!そして、それを

信じる人間がいることも僕には驚きだ!

 

人間は、強固な自我があり、同時に弱く無知な自我がある。

人に知られる人類史上において、あらゆる悲嘆があり、

様々な苦悩があり、殺戮が絶えない時代があり、それゆえ

幾千万人の弱者が神に祈っただろう。しかし、神が人間を

救ったと言う体験談は、滅多にない。ときたま神に救われた

という人もいるだろうが、神が人間を救ったと言う客観的な

証明は聞いたためしがない。

人間は、窮すれば弱い。だから無神論者でさえ神に祈るだろう。

それの結果はどうであれ、祈りは他力への依存心を育む。

何であれ依存心は、自分を弱い者にする。弱いものは益々祈りに

傾注するだろう。

では真摯な祈りに対しては、速やかな答えが得られるのか?

いいや得られない。それは、歴史が証明して来たことだから。

祈りも弱き人間故のものと観ずるなら、そして、もし祈るなら

荒唐無稽な人格神に祈るのではなく、また怒り狂うような怖い

神に祈るのではなく、自分自身の本性たる真我に向かって祈る

方がいい。それがベストだ。

では、どのように祈ればいいのか?

 

この世の幸福に関する様々な願い、それらの願望の実現は、

求めないほうがいい。なぜなら、それを望めば、また祈れば、

それが叶えられるかも知れないが、それがまたマーヤの世界への

束縛を強化する。この苦界から抜け出すことが出来なくなった

人類たち。それは、自分のせであって、神に祈ることではない

ことを知りながら、それでも祈りたい人は、祈ればいいだろう。

 

この身体に閉じ込められた不自由な自分がいる。

その束縛は、神が与えた試練などではなく、また、悪魔の呪い

でもなく、自分が自分を身体へ閉じ込めたのだ。そして、

だからこそ、諸々の苦と悲しみとを経験するのである。

この道理を知れば、神への祈りはなんら正当性が無いと知る。

 

つまるところ、人として体験し得る諸々の苦しみと悲しみは、

輪廻の鎖から解き放たれることによってのみ消滅するのだから、

この世への束縛から解放されること、身体とマインドの束縛から

解放されることを希求することが、唯一正しい救いの道なのだ。

 

それに到達するための祈りの言葉は、自分が考えて選べばいい。

推奨すべきは

願わくば、われに解放の光りを与えたまえ

であるだろう。

 

真剣な祈りは、その力となり、神経と血液に流れ込み、心身を

癒し、やがて解放のエネルギーと結合するだろう。

 

終わり