神々と悪魔

神を信じる人よりも、神を信じない人は多く

いるけれど、悪魔の存在を信じない人は、また

また多くいるだろう。

なぜか?

人の内奥には、神的な想いと、悪魔的な想いが

住み着くことがあるため、人々は、片方の悪魔の

存在を否定する立場というか傾向がある。

 

言葉は想念を作り出す。想念は言葉を生み出す。 

しかしながら多くの人は、想念と言い、思考や

感情を観察しない。何故だろうね。難しいから?

それとも観察したら、やばいから?

しかも人は想念を使いながら、想念が映像と

音声から成ることに気づかない。というか、

気づこうとしない。

なぜか?

自分の心が悪魔的であれば、それを他人から

知られないようにと思い、言葉の上では、いい

ことをいいながら、時に悪魔的な想念を抱く

人達は、無数にいる。

可愛い顔をしたお姉ちゃんでも、それはそれは、

凄い悪魔的な想念を放つよ。

 

人が嫉妬や憎しみのエネルギーを使うときは、

霊的エネルギーとしての悪魔が人を支配しても

当然なのだ。

それゆえ悪魔は、空想の産物ではない。

悪魔とは、人の心に住み着く負の悪魔的なエネ

ルギーである。

お分かりかな?それとも分かりたくないかな?

思いを二つの色に分けて考えよう。

利己的な排他的な破壊的な想いを「黒」として、

一方では、多少の利己性もあるけれど、他者への

配慮もする想いを「白」とする。

この対立する二つの色から無数の色が生まれる。

何となれば、人が身体を放棄するまさにその時、

心の色合いに応じた意識世界へ行く。生前に悪い

ことしか考えなかった者は、黒(悪魔)の姿を

持って黒(悪魔)の世界へ行き、悪の限りを為す。

生きているとき、悪しきことを考えず、善いこと

だけを考える奇特な魂もいる。そんな彼らは、

白(神)の姿をとって神々の世界へ生まれる。

 

あの世に逝って、悪魔(黒)の姿をとる者、

また神(白)の姿をとる者、彼らは、自分の

超越的な力におぼれる。そのような意識世界の

一部では、悪魔同士の戦いがあり、神々と悪魔

の戦いがあり、お互い不滅の身体を持つ者同士の

戦いは、終わりが来ない。

彼らが使う戦いのエネルギーは、主に想念であり、

想念エネルギーは、地上の人間も支配下に置く。

だから想念の消滅を目指さなければ、神々や悪魔

の支配下に置かれる。

地上に身体を持つ人の想いは、神と悪魔の影響を

受けて、善と悪の二元論の白と黒の混合・グレー

であり、混合比率は各様だ。それが無数の色個性

として知られる。

 

あの世において、神々や悪魔の姿をとるのは、

地上における生の結果を体験するものであり、

そこではカルマを積まない。それが不幸中の幸い。

悪魔や神々の体験がカルマになったとしなたら、

地上は瞬く間に暗黒と化すだろう。

あの世における悪魔の体験が、カルマにならない

けれど、人の心はその傾向を帯びるから恐ろしい。

もっと恐ろしいことは、心と魂とが接合した状態に

おいて魂もその傾きを持ってしまうのだ。時として

生まれながらに悪魔のような人間もいる。

むかし建築家協会の見学会にて、某刑務所の施設を

見学した。そこの所長の講話が驚きだった。

見学者:「受刑者は環境によって悪を為すけれど、

みな善性ですよね?」

所長:「いいえ違います。生まれながらにして愛も

慈悲もない人、生まれた時から悪魔である者がいる

のです」と。

その話を聞いた時、所長はウソを言っていと思った。

しかし社会の中で、深く人と関わるとき、見かけは

人間であるけれど、内面は、まさしく悪魔なのだ、

という認識を抱くことしばしば体験した。 

 

善悪論を抱くあなたが考える善が、他者の善を非難

したり、争いを生んだりする。あなたが信じる宗教

の神の想念が、他教を排斥したり、宗教をやらない

人を見下すと言う傲慢さも生む。

このような心の傾きは、悪魔的と言えないだろうか?

 

善と悪、神と悪魔、自分と他者、これらの二元性から

諸悪が生まれる。しかしながら、すべての魂は潜在的に

善性である。転生輪廻の体験により、身体を持った人は

善と悪を覚える。だから人の考える善悪論は、真実では

在りえないから、きっぱり捨てなければならない。

 

もう一つのタイプは、

とりわけ古代ヨーガや仙道などの霊的修練を積んだ者が、

身体を放棄する時、神々の世界に住するのだ。しかし、

このような神々は、エゴを持っているから完成した魂と

言えない。彼らは、完成を望まずに超越的な力におぼれて

解脱を望まない。自分が獲得した超越的な力、至福感覚

におぼれた魂達ではあるけれど、それでも彼らは宇宙の

支配者である。

 

宇宙の支配者とは、何かというならば、宇宙はマーヤと

呼ばれる世界であり、物理学上の不偏的法則に示される

ものだ。それゆえ不偏的法則とは真理ではなく、マーヤ

の法則性である。

それゆえ神々は、マーヤの世界の支配者であり、人間が

マーヤを超越することを困難にする。神々は人間が解脱

することを許さない。誘惑の手を差し伸べて解脱の邪魔を

するのである。むろん悪魔も邪魔をする。

なぜか?

神々の世界を超え、超越的力のすべてを放棄して、真に

完成した魂は解脱者と呼ばれ、神々の支配者になる。

神々は、それを許さない。自分よりも上位になろうと

するものを排斥する。

 

インドの宗教、とりわけヴェーダンタ哲学は、様々な

神々が登場する。ヨーロッパや日本の神々も含めて、

それは人格神であり、その誰もが解脱した魂ではなく力と

地位を保持するだけの者たち。そんな彼らは再び地上へ

降りて、人の身体の中で解脱を果たす使命を帯びている。

神々と言えど人に生まれたら、ほとんどの者が悟れない。

だから神々として天界に君臨し続けている。

諸君は、こうした世界を知らないだろう。そして神は

善性であり、人を救う存在だと勘違いしているだろう。

そのように思うことは、大きな間違いなのだ。

触らぬ神に祟りなし

宗教上の神々は、欲望や嫉妬を持つ人格神であるから、

悟ろうとする人間に嫉妬もする。だからこそ神を信じて

はいけないという教えがあるのだ。そして、神を信じる

ことが信仰ではないと言うことを知ることだ。人が解脱

することにおいて、神は必要が無いだけでなく、完全な

自由という境地の解脱の障害になるのだ。