旅立ち

若いころ、目的のない旅に出ることに憧れた

時期がある。だが願いは叶わなかった。

 

現代は、目的のない旅をする人が少ない時代だ。

仕事や家庭に縛られているからだもと言える。

そんな現代人も、この世を去り、あの世へ旅立つ

時がくる。

しかし自分の肉体が死して後、どこへ行くのか

誰も知らない。自分の肉体が生まれた時、自分が

どこから来たのかも知らない。

知らずに始まり、知らずに終わる人の一生。

だから途中の人生も意味不明なのだ。

 

ある日、父が危篤だと言う知らせがあり、

姉と妹と僕は病院へ行った。するともうすぐ父の息が

絶えようとしていた。その父の身体周囲には、どす黒い

微粒子が集まり始めて、父の意識がもうろうとして、

白目になったり、おかしなことを呟きだした。

「彼らに持っていかれるな」と感じ取り、いわば

ヒーリングを行った。すぐさま父の呼吸が穏やかになり、

眼も正常に戻り、明晰な意識に戻った。唇さえ動かせない

ほどに衰弱した父は、最後の言葉を涙ながらに発した。

「せがれよ、ありがとう」と。

そして、生命の呼吸は消えた。

 

病院の霊安室にて、遺体を見守る中、三人とも居眠りした。

名前を呼ぶ気配に目を覚ますと、遺体の上には、ボーリング球

よりも大きめの光りがあった。明るくも無く暗くも無い光り。

「お、おやじ、抜けたんだね!」と安どした僕。

すると、またしても「せがれよ、ありがとう」と声なき声が

返ってきた。それは、父の意識は、身体を脱ぎ捨てたことを

自覚したと言うことだ。同時に自分は身体では無かったと言う

小さな悟りを得たのだ。それが「ありがとう」の意味だった。

だが、このようなケースは稀なのだ。

居眠りする姉と妹を起こしたのだが、二人は父の本当の姿を

観たのかどうか。

 

本当の姿とは、どういうことか。

身体は魂に付加された微粒子のエネルギーであり、この物質

世界を生きるために投影された使い捨ての道具である。

身体を抜けた意識こそ本当の自己に近い。これを人は知らない。

知らないから道具である身体が自分だと勘違いしている人間たち。

光球になった父の意識体は、魂とマインドの結合体だと言って

いい。だがマインドが優勢であり、魂の自覚は極めて薄い。

だから行く先は、生前のマインドに相応しい世界へ行く。

行くと言うか、そこへ引き寄せられるというべきか。

生前の記憶は魂が回収して持ち帰る。これとて持ち帰らなくて

いいのだけれど、永い転生の過程において、記憶を持ち帰ると

言う間違いを犯している魂。だから様々な個々のマインドが

作るあの世は、広大な広がりを持つ多層世界なのだ。あの世と

言ってもピンキリの違いがある。

肉体を離れた光りの混合体は、地上での記憶を忘却し、赴いた

世界に反応するだけだ。あたかもこの世に生きるが如く。

人は、マインドを消し去るまで、この世とあの世とを輪廻する。

ほとんど記憶喪失状態のままで。だから誰もが人生に何の意味が

あるのかと自問しなければならない。わたしは誰かという深い

問いも不可欠なのだ。身体が滅びゆくその日までに、自分の行く

べきところを知る人は、ほとんど居ない。

人と言う旅人は、真の我を知らず、

肉体が死しても行く先をも知らず。

だから人生は夢のようなもの。

 

一度でいいから、人生という夢から

覚めたらいい。