宗教と科学

僕自身は、子供の頃から宗教が嫌いだった。

その直接的な理由は、幼少期の体験だった。

僕自身が宗教を体験したのではなくて、

他者の体験をみて、宗教はゴミのようなもの

だと知ったのだ。

近所には創価学会員が多くいて、その人たちの

言動をみると、かくも宗教は人を愚かにする

ものだと知ったからだ。

ある日、学会員のおばさんは、自分が賢いと

言って、中学生の僕にも入会しろという。

毎日、何妙法蓮華経を何百回も唱えるから

自分は立派な信仰心がある、というおばさん。

この時の僕の想いは、ハッキリと明晰だった。

おばさんが唱える意味さえも分からない言葉、

それが何妙法蓮華経なのだが、それを唱える

こと自体がナンセンスな思考の硬直化であり、

仕事や家事を逃避する鬱病的行為だと知った。

このおばさんたちは、近所から嫌われ者だったし、

いつも不幸だとも言っていたからだ。

しかしながら、自分達が信仰者である、という

思い込みは、他者を愚か者とみなし、他人の

悪口を語るおばさんたちは、愚かでありながら

傲慢さを育むのが宗教だ、と思った。

そう思った数日後、

トイレ内の空間に現れた光りの文字を観た。

宗教の文字が現れ、離れたところには、科学の

文字が現れた。眼を閉じても、開けても光りの

文字はそこに在った。箸の太さの光り文字。

手で触ると物質的な実体はないが、そこに意味が

存在していた。文字間には、二本の線が走り、

宗教 = 科学 を示した。

このような啓示を観た瞬間、それらの本質が

理解できたのだ。一見して対立する概念の

宗教と科学。それは、コインの裏と表の関係性

であって、意味は一つのことを示していると。

 

大人になって知ったこと、

これまた希代の天才科学者・ニコラテスラの

言葉を引用する。

「科学が、非物質的な現象の解明に望んだなら、

10年間で、今までの人類史すべてを遥かに

凌駕する進歩を遂げるだろう」だった。

このニコラテスラ、そして、アメリカにヨーガと

ベーダンタ哲学を伝えた、ビベーカナンダ師は、

会談したのだ。お互いの立場を超えて考え方が

同じだったことを確認したのだ。

ビベーカナンダ師の主張は、ヨーガは優れた

科学であるというものだった。つまり科学的な

考察、原因と結果を伴わないような宗教は

真理だと言えない。科学もまた、心の内界を

探求すべきだと言ったのだ。

この異なる職業の両者は、一枚の同一なる

コインの裏面と表面なのだ。

裏と表という見かけの違いを超えて、一つの

実態論を現しているコイン。

現代の宗教は、現代科学の前では、真理性を

証明する中身を持たないいい加減な疑似科学

でしかない。そうであるから滅びるだろう。

 

科学は、自然界の成り立ち、宇宙を客観的に

証明する力を持った発展途上の真の宗教の

胚芽であり、今の宗教は、すべて真理性への

証明力が無いオカルト的なものだ。

現実面において、悟った教祖はだれも居ない。

だから現代の宗教もまた、マーヤであり、

ファンタジー宗教なのだと言うゆえんだ。

そんな宗教に属していても幸福になれる訳が

ないとこを人は気づかない。

何故なら爆睡しているかのように妄信している

からだ。その眠りは心地が良くて、簡単に目が

覚めまい。

偽りの眠りから、眼を覚まさせようとすれば、

噛みついてくる偽り宗教団体の信仰者たち。

彼らは、ただ放置するしかないか。

 

宗教の在るべき意味論は、人を解放する道を

示すことに在り、魂を解放するものだ。

だが人を騙して束縛するのは邪教と言われる。

とりあえず終わり。