霊眼の芽

【下記は、転載を禁じます】

人が騙されないようになるには、

物事や人に対し、警戒心を持つことが

必要だと思う人は多いだろう。

だがしかし、そう思うことが間違いだ

と言うことだ。なぜなら警戒心とは、

あるがままという実相に無知なマインドの

抱く疑いだから事実的根拠に乏しい。

 

騙されないこと、それ即ち真実を知るには、

霊眼の開花をもたらす胚芽を育てなくては

ならない。

 

どのようにして

 

「あるヨーギの自伝」という本を残した

インドのヨーギがいた。その名前はもう

忘れたが、彼は眉間のチャクラに精神

集中すればいいと教えていた。

その彼は、霊眼の働きについては良く

知らないので、ウソを教えている認識が

無かっただろう。だが、このような偽り

情報が広まり、眉間のチャクラに集中

した者の数は、計り知れない。

 

無駄な努力、ご苦労さん。 

 

自書「覚醒の道標」に書いたと思うけれど、

子供の頃、父と母は、時々按摩さんを家に

呼んでいた。つまり出張マッサージってこと。

ある日の按摩さん曰く、「この新しい座布団の

色が綺麗な赤ですね」と言った。

その安間さんは、全盲なのだ。

驚いた僕は、色紙を持ってきて、いろいろと

試した結果、全部の色を言い当てた按摩さんに

家族はびっくり。

幼少の頃から、母親が色彩のあるものを手に

触れさせて、色の種類を教えたと言う。

それが本当かどうか知らないが、全盲の人が、

色彩を区別できたという事実は、子供にある

考察を与えたのだ。

つまり、何も手でなくても、足裏でも頬っぺた

でも読み取れるのではないか?と。

眼は無くても色彩が観えるなら、眼がなくとも

風景や人も観えるのでは無いかという考察が

生まれた。少し、おませな子供だったかも。

このことからも言えることは、眉間のチャクラが

霊眼の開花条件では無いということだ。

<中略>

小学生になると、仕事から父親が帰宅したその

姿を観ると、家を出てから帰宅した時までの

行動や言動のすべてが動画で観えた。それは、

一瞬の間だ。その訳は、長くなるからここに

書かない。

 

25歳の時、丹沢山中へ断食瞑想に行った話し。

なぜ、深い山中へ行ったのか。それは過去世の

カルマが、そうさせたのだ。

瞑想を何も知らないと言うのに、川の中央に

あった大きな岩の上に座した時、遥か太古の

時代において、このような瞑想体験をしていた

のだ、という記憶の一部がよみがえった。

しかもすぐさま開花した霊的な視野は、

周囲上下の360度光景が観えた。しかも

霊的世界の様相も観えた。

遥か遠方の光景でさえ、自分の眼前に引き寄せて、

物事や人のありのままを観ることができる。

 

霊眼の便利さ、この上なし。

 

もし、この丹沢瞑想を先に体験していたなら、

インチキ信次になど引っかからなかっただろうが、

皮肉なことに、インチキ信次に引っかかってから

丹沢山中に行った訳だ。(´;ω;`)

 

人はみな、霊眼を開花させることは、何にもまして

重要だ。ただ観えれば、そこに真実が露わになって

いる。真実が知られるなら、無知を彷徨う思考は

必要がなくなるのだ。だから思考は押さえつける

ものでなく、自分から去ってゆくものだ。

 

逆説的な言い方は、霊眼の真実が観えないから、

無知な思考がうごめくのだということ。

霊眼は、霊的な眼ではあるけれど、霊能力では

無い。超能力でもない。人の本質だと言える。

 

だから人は先ず、霊眼を開花させようという

熱望を持たなければ、騙され続けるだろう。

それの熱望が清らかさを生む。

それゆえ心の清らかな人は、霊眼の胚芽が開き

始めるだろう。

ただし、心の清らかさは、現代人に好かれない。

理解さえできないのだ。別の言葉が必要か。