わたしは海

いつか書こうと思ったことが幾つもある。

表題の「わたしは海」について、実際の
わたしと海との関係を描写するのは難しい。
だから類似性があるたとえ話をしよう。

むかし、テレビのドキュメンタリーを見た。
それは、水族館で生まれたイルカが居て、
それが成長すると、プールの中でイルカ
ショーをやっていた。芸をすると死んだ
イワシが与えられる。

成長したそのイルカを大海へ放すと言う
プロジェクトが生まれた。
麻酔をかけられたイルカは、大き目のシートに
包まれて、クレーンが釣り上げ、それを積載
したトラックが岸壁へ運び、イルカを船に積み
込み、そして、沖へ向かう。

イルカには、数日だけ固定される小型カメラが
取りつけられていた。麻酔から覚めたイルカは、
クレーンに釣り上げられて、やがて海に放たれた。

水族館のプールに育っただけのイルカは、大いに
驚いただろう。イルカが泳ぐ軌跡は、パソコン
画面に現れる。その画像を目撃するスタッフたち。
そして、テレビを見る人たち。

例えば、イルカに思考があるならば、

ここは、いったい何なんだ!?
イルカは、そう感じただろう。

海に解き放たれたイルカは、弾丸がはじかれる
ような力強い泳ぎを見せた。
その力強い泳ぎは、決してプールの中では体験し
得なかった自らに内在した力なのだ。
それは時間の経過と共に知る、未知だった自分の
力の発見だ。その強大な力は、海の中で獲得した
ものでなく、プールにいた時でさえ自分に有った
力なのだ。

海中のイルカは、数千から数万匹の魚群に出会う。
それもプールの中では、決して知り得なかった
生きた情報なのだ。

パソコンの画面には、様々なシーンが現れた。
それがイルカが見聞したすべてだ。数時間後、
あたかも海底魚雷が船体に向かっているような
画像があった。

その海底魚雷らしきものは、船に戻ろうとした
イルカだった。海面に顔を出したイルカは、
スタッフに別れを告げたのだろうか、ふたたび
海底に消えて、二度と船に戻らなかった。

イルカは、小さな限定されたプールから解き
放たれて、広大な自由の海へ帰り着いたのだ。

人もまた、プールの中に生きるイルカのような
ものだ。人もまた、狭いプールという世界しか
知らない。大海を知らないイルカと同じく、
人は自由な魂の大海を忘れ去っている。

イルカという有機体の個体性のみを見るならば、
限定されたプールという環境があり、大海という
限界なき環境の変化があり、個体は環境に依存する
という当たり前の事実がある。

身体という個体性を持ったままでも、
人の魂は、無限空間の大海を生きることが
出来るのだ。その自由度は、桁が幾つも違う
と言うことだ。自由度を幸福度と言っていい。

そして、もし身体という個体性それ自体が、
マーヤだと知覚したならば、それの修練が
必要ではあるが、言葉によっては描写する
ことができない歓喜と至福の大海へ解き
放たれると言うこと。

そしてまた、その歓喜と至福の大海は、
自分自身だったと知るだろう。そして人は
満ち足りて静かになる。

自分が欲しいと思う物のすべては、
すでに自己が内包していたことを知り、
それはまた、人生すべての欲望があわい
幻想だったと知り、人は満ち足りる。

人生の努力、仕事や技術の習得や達成、
なにかに成ろうと努力すること、それは
必要が無かったのだ。

ただただ、本性の自己があることに気づく
だけで、あなたは歓喜と至福だったと知る。

だから本当は、
何もしなくていいんだ。

君もまた

知らずにイルカショーをやっている
芸人なのかも知れない。

いよ!芸人さん(笑)