十字架のイエス

【下記は、転載・流用を禁じます】

人類の三分の一は、キリスト教徒だと言うのは、

キリスト教だ。それが事実かどうか、どうでもいい。

アメリカ人の約6割がキリスト教徒だと言う。

この数字もどうでもいい。

 

日本のキリスト教徒、アメリカのキリスト教徒は、

ゴーダマ仏陀を評価しない人が多い。無理もないか。

それもどうでもいい。

 

実は、キリスト教もどうでもいいものだ。そんな

キリスト教の不思議を聞いてもらおう。

ゴーダマブッタは、80歳まで長生きして、天寿を

全うしたから救世主じゃあない、という不思議な

クリスチャンが大勢いることを。

一方では、3年の遊説のすえ、十字架にかけられ、

磔に処されたのは、救世主を証明するゆえの迫害だ

とクリスチャンたちは言う。

僕は、開いた口がふさがらない。

 

聖書の作者たちは、賢くなかったことが聖書に

現れている。その一つ、十字架のイエスが叫んだ

という有名な言葉である。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てに

なったのですか」という、実に情けない救世主

イエスの叫びは、マタイ伝とマルコ伝である。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」これが

ルカの福音書である。

「成し遂げられた」は、ヨハネの福音書である。

 

このようにイエスの磔という場面の描写が、

なぜ、弟子によって異なる言葉なのか?

それともイエスは、それぞれ三種類の異なる

叫びをあげたのか?まさかね(笑)

そしてまた聖書では、イエスが磔になる前に

弟子が逃げて行ったと書かれてあるのに、

弟子が磔の場面をみたように描写されている。

このような描写がウソであり、弟子の異なる

言葉もまた聖書には、信憑性がないことを

ハッキリと物語っている。

 

仮にも日浦が聖書の作者であるなら、三者の

弟子の異なる言葉を聖書に残さない。どれか

一つの言葉に統一するだろう。たぶん読者の

君とてそうするだろう。

 

ものの見方は、多様性がある。

 

広大なインド全土の三分の一を、改宗させた

ゴーダマ仏陀の業績は、実に偉大なものだ。

そしてまた、数千人もの解脱者・ニルバーナ

体現者を排出させたゴーダマ仏陀は実に偉大だ。

その仏陀の教えが全インドから消えたのは、

仏陀滅後の信奉者たちによる間違った論説が

広まったからだ。

 

一方のイエスは、他宗教を改心させた記録が

なく、また誰ひとりとして解脱させなかった。

これが事実だ。

イエスと仏陀の比較において、誰が救世主と

呼ばれるに値するかが分かるだろう。

 

「イエス・キリストは、小物だったね」と

いうと、

「そうです。聖者はみな小さいです」と

おっしゃった紫蓮さん。

皆さんは、この意味が分からないだろう。

 

つまりイエス・キリストは、人と歴史が捏造した

仮想のスーパースターなのだと、われは言うなり。

 

もしキリスト教が絶対に正しい、と主張する人なら、

コーランのイスラム圏へ行き、イエスの教えを広めて

みたらいい。そうすれば、十字架にかけられる死に

方をするかも知れない。そんなクリスチャンがいる

なら、その彼も救世主だろうか?